〇わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝
イエス様は十字架にかかる前に、弟子たちにぶどうの木の譬えから、わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝であると言われ、「豊かに実を結ぶために、わたしにつながっていなさい」と言われました。そしてさらにただ、つながっているだけではなく、「わたしの愛にとどまりなさい(つながっていなさい)」(9節)と言われました。「つながっている」、「とどまる」と訳されるこの言葉が何を意味するのかと考えますと、少なくとも、イメージ的に手をつないでいる、もしくは神秘的につながっているということではないはずです。それは具体的に表に現れることであり、弟子たち、つまり今日のキリスト者であることを表すことを意味しています。ですからイエス様の愛にとどまるには、主イエス様の戒め:互いに愛し合うこと、この戒めを守ることだとイエス様は言われます。
〇イエスにつながるとはイエスの愛の戒めを守ること
イエス様はこの愛の戒めを繰り返されています。初めて言われたのがイエス様が弟子たちの足を洗われた後です。イエス様は弟子たちの足を洗われました。それは奴隷がする仕事であり、弟子たちも困惑したのですが、イエス様は「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:15)と言われました。その後、イエス様を裏切るユダが部屋を出て行くと、残った弟子たちに新しい戒めの話をされたのです。
「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 ヨハネ13章34-35節
続いて「あなたがたは、わたしを愛しているならば、私の戒めを守る。」ヨハネ14:15、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」(14:25)と言われているのは、単に口先だけで、「愛している」ということではないことが分かります。また「わたしがあなたがたを愛したように」と、つまり人間の考える愛ではなく、イエス様の愛で互いに愛し合いなさいと、かなりハードルが高い戒めです。このことを言われた後食事をした部屋を去って、ゲッセマネの園へ皆で歩かれていく途中で、本日の箇所のぶどうの木の譬えとイエス様の愛につながり実を結ぶということを話されています。そしてイエス様は、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。」(15:9)と言われました。イエス様の愛は、天の父がイエス様を愛されたような愛であること、つまり神様、イエス様、弟子たちと同じ愛で愛することになります。
つまりイエス様を愛する、イエス様につながるとは、一人一人が信仰と愛を堅く持つことを表しています。このことは、マタイによる福音書7章21節で、
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国にはいるわけではない。わたしの父の御心を行う者だけがはいるのである。」
とイエス様が言われたことと一貫しています。つまり、「私はクリスチャンです」といいながら、愛するどころか、人を虐げ、悪口を言い、人を殺し、人のものを盗むなどを悔い改めず、し続けるならば、その人は口でいうだけで、イエス・キリストをそもそも信じていないことが表にでてしまうのです。
私たちは良い行いをしたから、悪い行いをしなかったからというのが条件で救われるのではありません。キリストを信じる信仰で救われたのであり、イエス様の十字架の贖いにより、罪が赦され、神様の前に正しいとみなしていただき、聖霊が与えられるという、神様の恵みにより救いの業に預からせていただきました。ですから、キリストを信じると聖霊が内に住んでいるので、イエス様の戒めに従おうとする、悪から遠ざかろうと努める、罪を犯したら悔い改めて、再びしないように気を付ける、そしてたとえ敵を愛せなくとも、愛せるようにと天の父に祈って助けを求める、低い姿勢と変えられるのではないでしょうか。それが信仰を持っている者が愛の行為として外に現れるということであり、それを他の人がみて、「ああ、あの人はイエスの弟子だからなんだ」と分かります。
「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」ヨハネ13:35
〇聖霊が互いに愛し合うことを助ける
イエス様の愛で互いに愛し合うという非常に難関なことを、実際私たちが他者に向かって行うには、聖霊の力が必要です。聖霊なくして、自分の持ち前の性格の良さ、寛大さ、能力でやろうとすると出来なくて諦めてしまうでしょう。朗報は、御霊の実は愛とありますから、御霊の実を結ぶには、聖霊が互いに愛し合うことを助け、神の御心を行うよう導いてくれます。その為に、イエス様は聖霊をあたえる約束をしてくださっています。神様は無理難題を自分だけで行いなさいとは言われません。
「しかし、弁護者、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく想い起こさせてくださる。」ヨハネ14:26
御霊の実を結ぶということをパウロはガラテヤ5章で記しています。
「これに対して霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ガラテヤ信徒の手紙5:22-23
これらは聖霊によって結ばれる実であり、この実を結び、実が残るようにと、私たち、イエス様の弟子は、イエス様より任命され、各々置かれた場所に遣わされています。そして現代に生きて、キリストを信じ、聖霊をあたえられているわたしたちも、遣わされています。
〇イエスの「友」として実を結ぶ
イエス様は私たちを友と呼んでくださいます(15節)。イエス様は「主」と呼ばれ、弟子たちにとって師匠であり、主人であり、弟子とはイエス様の言うことに従う立場です。しかし、ただ奴隷のように、盲目的に理由や目的も知らされず従うのではなく、「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15節)と、私たちに神様の御心、計画を共有してくださる関係に招いてくださいました。神の御子が私たちを「友」と呼ぶ、つまり神が私たち人間を「友」を呼んでくださるということですが、旧約聖書で神様が人間を「友」と呼ぶれたのはアブラハムだけです(「わたしの愛する友アブラハムの末よ」イザヤ41:8)。私たちは、イエス様の友として、イエス様の言われた戒めに同意して、またそれが神様の御心であり、ご計画を知った上で、従おうとしているでしょうか。キリストを信じる信仰にはキリストに従うことが伴います。なぜなら、普通の人間関係にある友のような、相互に友として選ぶのではなく、イエス様が言われるように、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)と、イエス様の方が友として選んだこともはっきり言われています。そして、「行って、実を結び、実が残るようにと、…任命したのである。」(16節)私たちは、友であるけれども、任命される立場にあり、任命した方の意思に従う、主として従う立場であります。それは友であるけれども、僕のように主に従うという関係であり、そこには強勢ではなく、愛の関係があります。
では選ばれない人がいるのかというと、まず神様はすべての人を招いておられることは、「渇いている人は、だれでもわたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)とイエス様は言われている通りです。わたしたちがこの御言葉から分かることは、神様はすべてのひとを招いてくださっているということです。しかし、その招きを受けない人もいるということです。神様が「選んだ」ということを、人間側からどのように選ばれるのか、と理屈をこねるより、神様の自由な選びとしてとらえたほうが良いでしょ。私たちがなすべきことは一人でも多くの人が主イエス様の招きに応じ、イエス様を救い主と信じて、イエス様につながり、友となり、御霊の実を結ぶことを祈り求めることが大切ではないでしょうか。
また、これらのことを話す目的は、「わたしの喜びがあなた方のうちにあり あなた方の喜びは満たされるためである」(11節)と言われます。イエス様の喜びとは何でしょうか。それは、私たちを贖うことであり、「あなたの罪は赦されました。主の喜びに入りなさい」と神の国に迎え入れること、それがイエス様の喜びです。その喜びのために、イエス様は十字架を忍ばれました。
「このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右におすわりになったのです。」(ヘブライ12:2b)。
私たちを友と呼び(15節)、イエス様の愛の中に私たちが入れていただき、互いに愛し合い、御霊の実を結び、その実が残るようにと天の父に祈り求めましょう。そのためには、イエス様の名によって天の父に願えば何でも与えられるとの約束(16節)は、私たちにとって大きな励ましです。 (新共同訳聖書引用)