聖書箇所 ヨシュア記2章1-23節
〇ヨシュア記について
ヨシュアとは、出エジプトのリーダーを任された、神の人モーセの後継者で、そのヨシュアが率いるイスラエルの民が踏む場所が約束の地として与えられるという神様の約束(1:3)の実現(6-12章)と、各部族への土地の割り当て(13‐21章)が記されているのがヨシュア記です。ヨシュアという名は「主は救う」という意味で、もともとは、ヨシュアは「ホシュア」(彼は救ったの意味)でしたが、主なる神の救いを特定して「ヨシュア」に改名されています(民数記13:16)。この時代ではまれな名前でしたが、後代では神の力を告白する名前を子らにつけるようになり、このヘブライ語の名前イエシュアが古代ギリシャ語 イエスースIesus (?ησο??) であり、イエス様の名の語源となっています。ヨシュアは若い時からモーセの従者として仕え(出17:8-13,24:13)、モーセから指導者の地位を引き渡され(申命記31:6,7,23)、神様ご自身が、ヨシュアにイスラエルの人々を約束の地に導きいれる者として任命し、強く雄々しくあれと励まし、共におられる約束をしておられます(ヨシュア記1:1-9)。
〇ヨシュア、エリコへスパイ(斥候)を送る
主はヨシュアに何度も「ヨシュアよ、強くあれ。恐れるな。雄々しくあれ。わたしはあなたと共にいる。」と言われましたが、ヨシュアは事前にエリコの町にスパイを送り、様子を探ろうとします。これは神様の指示ではなかったので、ヨシュアは直接エリコへ行くことを少し、恐れを抱いていたのかもしれません。ヨシュアが二人のスパイを送ることに関して、40年以上前に、彼自身が主がモーセに12人のスパイを送るよう命じられた時の一人として、カナンの地に送られた者であることを思い返したことでしょう。12人のうちヨシュアとカレブだけが、その地の良い情報をもたらし、攻略できると報告しましたが、他の10人の悪い情報:カナンの人々は強大で巨人がいて、自分たちの子供が殺されてしまうという によりイスラエルの人々は怖気ずいてしまいます。この事件は、神様に逆らったイスラエルの民は40年間荒野をさまよわなければならないという悲劇を引き起こしました。
当時のカナン人は偶像を崇拝して道徳的にも非常に堕落し、子供を殺して偶像の神モレクに犠牲として捧げていました。レビ記18章で神様はモーセを通してイスラエルの民に、このような乱れたカナンの風習にならってはならないとし、そのため神様はこの地をその罪のゆえに罰し、この地はそこに住む者を吐き出した(レビ18:25)とあります。これが、ヨシュア率いるイスラエル軍によってエリコが滅ぼされる理由といえます。
〇エリコの遊女ラハブ
ラハブはそのような堕落した社会で必要とされる職業の一つ、娼婦でした。二人のスパイがエリコの城壁に住む娼婦のラハブの家に滞在しましたが、その時エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、 王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」 と命令しました。しかしラハブは、嘘をついて二人を屋根裏に匿っていました。おかげで彼らは逃れることが出来ました。
スパイたちは、彼女から有力な情報を得ます。エリコの民がイスラエルの神のことを聞いたので恐れおののいているという情報「まことに主はこの地をことごとく私たちの手に渡されました。この地の住民は皆、私たちのことで弱気になっています。」が、後でヨシュアに報告されます(2:24)。ヨシュアは敵が弱気になっていることを聞き、どんなに勇気づけられたことでしょう。ラハブがスパイたちを匿い、またイスラエルの主なる神を信じるという信仰告白をし、彼女と彼女の家族だけが救われます。カナンとは現在のパレスチナ地域です。
城壁の一部が住居になるほど城壁の幅が厚かったということですが、城壁は敵の攻撃の最前線であり、外部の人間が近づきやすかったといえます。ヨシュアの時代が紀元前2千年頃とすると、その頃のヒッタイト国の記録では、女性が宿屋の主人の場合は売春宿とみなされていたこと、要塞や国境線のところに売春婦の宿を建てるのを禁じる法令が存在していたこと、またヨシュアの時代の数世紀前のハムラビ法典109条で、宿に陰謀をたくらむ者がいて、王の下に引き出さない場合は死刑とされていたことなどから、スパイや国に対して陰謀を企む者が売春宿に潜伏していたことが他資料からもわかります。
彼女が嘘をついて彼らを匿ったことに関してですが、偽証をしてはならないと十戒にあるように、嘘をつくこと自体は神様は望まれなかったはずです。たとえ彼女が嘘をつかなくとも、神様は彼らを見つからないよう守って下さるはずだからです。しかしながら、彼女は嘘をつく社会で生活してきたであろうし、十戒も知るよしがありません。それでもエリコの王に逆らうという自分の命の危険を冒してまで、二人のイスラエル人を助けようとしたことを神様は見て下さったのだと思います。彼女は偶像を崇拝し、娼婦という職業をしていたという過去があっても、イスラエルの民の信じる神の事を聞いて、真の神への信仰が与えられたからこそ、イスラエルのスパイを助け、その代わりに自身とその家族を助けるように彼らにお願いします。
〇赤い紐が示すこと
この赤い紐は、エリコの町が責められる時に、ラハブと彼女の家族は救うとスパイに誓わせた徴となります。彼らは言いました。「この赤い紐を窓の外に垂らせば、家にいる全員の安全を保証しよう。もし誰かが家から出れば、その人の命は奪われ、自らの運命に責任を持つことになる。しかし、家に留まれば、救われると」(18-19節)また、この赤い紐と、過越しの祭りとして代々記念として伝えられてきた出エジプトの時の小羊の血とは、十字架でイエス様が流された贖いの血を指し示します。こうしてラハブとその家族は神様の恵みによって救われ、ラハブはイエス・キリストの家系(マタイ1:5)となり、信仰により救われた女性として新約聖書にも記されています。
「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。」 ヘブライ人への手紙 11:31
「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。」 ヤコブの手紙 2:25
私たちがどのような者であっても、人種や過去の生き方に関わらず、ただ信仰によって神様は救い、赦すという型がラハブのストーリーにも示されています。現代においても、「キリストが私の罪が赦されるために、代わりに十字架で死なれ復活された」と信じる人には、神様は私たちの罪を赦し、神の子供とされ、永遠の命が与えられて新しい生き方に導いて下さいます。
〇私たちにとっての約束の地の相続
このヨシュア記の約束の地の相続というテーマは、クリスチャンにとってどのような意味に捉えればよいでしょうか。もしこれを「神が与えられた約束の地であるから、そこに住む先住の人を敵とみなし、戦って土地を攻略する」などとするならば、聖書を大義名分にした戦争を正当化するという、十字軍や今のパレスチナ紛争のようになってしまいます。平和を望まれる神様は決してそのような争いを望まれていないことは、キリストの教えから自明のことです。私たちの戦いは血肉(つまり人間)を相手にするものではなく、霊の戦いです(エフェソ6章)。その敵とは目に見えない悪魔と悪の諸霊であって、私たちは神の武具をつけて信仰の戦いをするのであって、その信仰の戦いにおける勝利を神様は約束してくださっています。神様がなされた罪と死に対する勝利の約束は、キリストを通して達成されていますが、このことはキリストのわざを信じる信仰とキリストへ従う生活を通して、徐々に個々人が獲得していく勝利の領域と言えます。つまり、救われてキリストの者となり、キリストに結ばれて神の家族となりますが、一晩ではその人の性格や今までの生活スタイル、考え方は変わらないし、悪魔は世的な合法的な方法で私たちを神様から引き離そうとあらゆる手を使ってくるからです。カナンの地が徐々に攻め落とされていくように、キリストに従う生活を持って、自分の内側の品性が変えられていくことが霊の戦いに勝っていくことであります。ローマ5章1―5節に記されているように、
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
つまり、私たちの信仰生活において、自分の抱えている問題や自分の内側の罪、弱さ、誘惑との闘いを通して、練達:練られた品性が生み出され、それがキリストにある希望につながるからです。それがなされるのは、わたしたちに与えられた聖霊の働きによるのであり、神様の愛がわたしたちの心に注がれて、自分が変えられていくことを期待できます。ヨシュア記から学べることは、聖霊がわたしたちの人生における見えない敵、壁を打ち砕くのを私たちが見られる、つまり各々の持つ弱さの領域において、私たちが聖霊の導きで勝利を手にすることができると希望が持てることです。
私たちはラハブのように信仰によって救われているという、キリストの十字架の血による犠牲、その復活の力が与えられているという、神様の大きな恵みを受けていることを感謝しつつ、私たちの心が聖霊に開かれて、神様が私たちの人生に働きかけ、私たちを勝利の場へと導いてくださることをみことばによって思い起こし、聖霊の歩みによる祝福を受け継いでいくことができるように祈り求めていきましょう。
(新共同訳聖書 引用)