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ester-chanのブログ

聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 先日、車を運転しながら、ゴスペルのCDを聞きながら歌っていますと、自然に涙がこぼれてきました。その涙は喜びと神様への感謝の涙でした。私の魂が喜びで震えているようでした。実はここ数か月の間、色々環境の変化があり、私にとって困難な状況が続いていのです。悲しみと、苦しみの涙を流すことが多く、神様に祈って助けを求めて御言葉で励まされて、なんとか一日一日を重ねてきました。正直、今まで与えられてきた、心の奥深いところの喜びを感じることが困難な日々でしたので、ブログも書くことができませんでした。

 ようやく賛美を歌うことで心が引き上げられたのは、神様の憐れみによります。神様は、こんな私をかわいそうに思って下さり、再び信仰を引き上げて下さったからです。実際、讃美歌に関して言えば、毎週の礼拝と各集会で何度も歌っていた(実際は奏楽していることが多い)のですが、いかに表面的だったのかと、神様の前に申し訳ない思いです。伝道師として神様のために、聖書の言葉に記される、神様の愛と希望を多くの人に伝えたいと願って、今の自分があるのに、ここにきて、たくさんの思い煩いが私の心を覆い、私の内にあるもの、心、魂が神様を賛美することをしばらくしていなかったのだ、と気が付かされたのです。まったく、自分は伝道師としてふさわしくない、ダメなものです。弱い者です。

 それでも神様は私を見捨てられないし、責められる方ではないのです。私は何のためにこの世に存在しているのかを、今一度、思い起こすことができました。そもそも、私は神様をほめたたえる、礼拝するために神様によって造られたことを。私が、神様の目的にかなったことをしていれば、心は平安で満たされます。依然として目の前の問題が変わらないとしても、主イエス・キリストに結ばれているがゆえに与えられている魂の喜びを、何を持ってしても取り去れることはできないのです。

 様々な試練にあった使徒パウロもこう書いています。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょうか。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配する者も…他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」ローマの信徒への手紙8章35、39節

 

 もし他の人と比較するならば、私の問題はたいしたことではなく、そんなことぐらいでと一笑にふされそうですが、問題というのはその当人にとってはたいしたことであります。人との比較は意味をなしません。神様は一人一人の心の思い、弱さの故の悩み苦しみを御存じであり、助けを求める者を必ず可哀そうにおもって、なんとかしてくださる、慈悲深く、情け深いお方です。私は過去に苦難の時、何度も助けられた経験から、聖書に示されている神様が愛であるということ、それが十字架に掛けられて死なれ、復活されたイエス・キリストに顕わされていること、その愛が私個人に注がれていることをますます信じる信仰が強められることは感謝です。その神様のしてくださった多くのこと、恵みと祝福を忘れてはならないと、下記のダビデが記した詩編からも思わされます。

 今後も神様を心から賛美する時間を努めて作り、賛美の詞に現わされる聖書の言葉をたくさん心に巡らしていきたいと思います。そして、聖書のみことばに示される、神様の愛を多くの人々に分かち合いたいと。また、多くの悩みを抱えておられる方々も、ゴスペルソングや讃美歌を聞いて、この魂が震える経験をし、心に光がさしこむような、そんな神様の愛を知る経験をしてほしいと願います。

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。

わたしの内にあるものはこぞって

聖なる御名をたたえよ。

わたしの魂よ、主をたたえよ。

主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 

  詩編103編1-2節  (新共同訳聖書引用)