奴隷として売られてしまったヨセフエジプトでの話が創世記39-40章に示されています。彼はエジプトのファラオ(王の称号)の宮廷の侍従長のエジプト人ポティファルに買われましたが、「主がヨセフと共におられたので」(2-3節)ヨセフがする仕事は全てうまくいくように、主が計られたので、主人や家のすべての管理・財産をヨセフに任せたとあります。また、主はヨセフのゆえに、そのエジプト人の家をも祝福されたとあります。ヨセフは兄たちにより暴力を受け、奴隷として売られ、独り異国で生きなければならないという過酷な状況において、最初はどんなに心が傷付き、辛かったことでしょう。しかし、その現状を乗り越えられたのは、「主が共におられた」からであり、彼はこのエジプト生活において、父ヤコブの神ではなく、彼自身が信じる主なる神への信仰が養われる機会、彼の品性が練られる機会であったと思われます。
そんなヨセフに更なる試練が襲います。主人の妻から誘惑を受け、それを徹底的に退けていましたが、その妻が嘘をついて「ヨセフが自分にいたずらをしようとした」と夫に訴えたため、ヨセフは監獄入れられてしまいます。どんなに主人に忠実に仕え、信用されてきたとしても、奴隷の立場であるヨセフは主人の妻の虚偽により、自身の冤罪を訴えるすべもなく、監獄という更なる過酷な境地に入ってしまいます。しかしながら、「神が共におられたので」今度はその監獄の中で、監守長の目にかない囚人たちをとりしきる立場として用いられます。
するとチャンスが訪れました。ある日、エジプトの王の役人:給仕役と料理長が監獄に引き渡され、二人とも同じ夜に不可解な夢を見て、彼らの世話をしていたヨセフにその夢を話します。そこで、ヨセフは夢を解き明かす力を神様より頂いていたので、二人の夢を解き明かし、一人がその夢の通りに再びファラオに仕えることが出来るようになると知り、「どうかわたしのことを思い出してください。…この家から出られるように取り計らって下さい。…牢屋に入れられるようなことな何もしていないのです。」(14-15節)と料理長にお願いしました。しかし、料理長は、監獄から出られるとヨセフのことをすっかり忘れてしまったのです。ヨセフは更なる忍耐を強いられます。しかし、おそらく、ヨセフは冤罪でいつ出られるかわからない監獄の生活においても、主なる神がきっといつか助け出してくださるという希望をもち続けていたでしょう。私たちも、祈り続けても状況が変わらない時、落胆し、祈ることも諦めてやめてしまうかもことがあるかもしれません。しかし、神様は神様のタイミングで私たちの祈りの答えを下さる方であることを信じ、その時が来るまで忍耐して待つことの意味をヨセフのストーリーから学ばされます。
イエス・キリストの別名は「インマヌエル」(「神が我々とともにおられる」の意 マタイによる福音書1:23)です。神が人となって、この世に来られ、我々と共におられた、そして私たちの罪を贖うために十字架にかかって死なれ、復活されて天に戻られて、目にはみえなくとも、聖霊が信じる者のうちに住み、づっと共にいて下さり、日常生活においても導いてくださることは、大いなる励ましであり、感謝につきません。こうして私たちが忍耐している間も、「神がともにおられるから」私たちもヨセフ同様、耐え忍び、待ち望むことができると信じます。