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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 神様の夢の予告とおり、非常に厳しい飢饉がエジプトだけでなく、周辺諸国にも及び、カナンの地のヨセフの父、ヤコブの家族にも及びました。ヤコブは息子たち10人に、穀物を買いにエジプトへ行くよう指示します。折しもヨセフは、エジプトの施政者として、穀物を販売する監督をしていたので10人の兄たちと13年振りに再会することとなります。ヨセフはすぐに兄たちに気が付きますが、兄たちはこの監督がヨセフとは分かりませんでした。ヨセフはエジプト人の高官の身なりをしていたし、通訳も間に入っていたからです。現代は、どこの国へ行ってもスマホが通訳してくれる便利な時代ですが、約4千年前のこの時代にも、すでに言語が異なる人のための通訳者がいたということが分かります。

 ヨセフはすぐに兄たちに自分の身を明かさず、兄たちをスパイ容疑にかけ、彼らが「わたしどもは皆、正直な人間でございます」(42:11)と自称するならばその身の潔白を証明するために、末の弟(ヨセフと同じ母を持つベニヤミン)を連れてくるよう、その間兄たちのうちシメオンを拘留するとして、食料を与えて(代金の銀はそのまま密かに袋に返し)カナンの地へ戻させました。なぜ、ヨセフはこのような対応をしたのでしょうか。それは、兄たちは自分たちの紹介をするときに、「僕どもは、本当に十二人兄弟で…末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。」(42:13)と自分たちがヨセフを死んだものとして父を騙し、奴隷に売ってしまったことを「失いました」で片付けてしまうという、何の反省も後悔もみられないということから、ヨセフは兄たちが父や末の弟を今、どのように扱っているかを確かめるために、一芝居を打ったのです。決して、兄たちへの復讐のためにしたのではなく、逆にもしこの過程を通らずにすぐに身を明かしてしまっても、兄たちは表面上は頭を下げてヨセフのご機嫌をうかがうだけで、お互い真の和解ができないからです。

 カナンへ戻って、ヤコブは上記のことを聞いて「いや、この子だけは、お前たちと一緒にいかせるわけにはいかぬ。」(42:38)と言い張ります。しかし、穀物を食べつくすと、ヤコブは食料を買いにエジプトへ行くように息子たちに言います。そこで、息子の一人、ユダがこの件でリーダーシップをとり、父ヤコブにどうしても末の息子ベニヤミンをエジプトに連れて行かなければ食料も買うことができないこと、もしベニヤミンに何かあれば、自分がその罪を負い続けるとヤコブを説得します。ユダは、以前家族から離れて異国の地で生活し、痛い目にあって少し成長させられたのでしょうか、家族が生き残るために自分が犠牲になる、つまり誰かが再びエジプトで拘留もしくは殺されることになる必要があれば、自らが請け負う覚悟で父を説得しました。こうして、ヤコブはしぶしぶ了承しつつも、「このわたしがどうしても子供を失わねばらないのなら、失ってもよい」(43:15)と、自分の大切にしている者を手放す覚悟ができたのです。神様がアブラハムに、彼とその子孫に約束され、ヤコブ自身にも言われたように、何があっても神が祝福し、共にいるということを思いだし、ようやく手放せたのかもしれません。そして神様は、私たちが何か固執している事柄を一度手放し、神様にすべてゆだねると、神様は私たちの想像を超える、驚くべき祝福を与えてくださることは、聖書に記されているストーリーからも知ることができ、そして私たち個人も経験でき、信仰が強められ励まされる機会となり、感謝であります。

 そして兄たちは弟ベニヤミンを連れてエジプトのヨセフの前に出ます。ヨセフは「弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになった」(44:30)とあり、その後皆でヨセフと食事をすることになります。この「胸が熱くなり」という訳の原語は「ラハーム」といって、その語源は「子宮」だそうです。旧約聖書では、神様が私たち人間を憐れんだり、胸が熱くなるという思いを表現する際、あたかも母親が母体の子を慈しむ、愛を注ぐ熱い思い、女性的な愛情で示されています。神様はこのような熱情的な思いを、ご自分が創造された人間に対して持ち、人間が神様に逆らっても、蒔いた種は刈り取らせつつ、忍耐してくださる方であります。次章ではヨセフストーリーのクライマックスと入っていきます。(新共同訳聖書 引用)