〇山麓の教え
本日の箇所は山麓の説教(ルカ6:20-49、マタイの山上の説教5-7章が並行記事)として、イエス様が12人の弟子を選ばれたことが直前で記されていますので(ルカ6:12-16)、イエス様が「目を上げ弟子たちを見て」(20節)とあるように、群衆にではなく、これらの弟子だけに向かって語られています。そして、20-26節では「幸いな人」と「不幸な人」(口語訳「わざわいだ」新改訳では「哀れな者である」)について話されています。おそらく、イエス様の弟子となった者は職業、家族を後にしてイエス様について伝道の旅をしている人たちなので、貧しく、お腹もすいたであろうし、律法学者やファリサイ派の人々からの攻撃など、泣きたくなることもあったかもしれないので、そのような人は「幸いである」、イエス様の弟子のゆえに迫害をうけても、天には大きな報いがあるから幸いであると。弟子たちをこれを聞いて、励まされたのではないでしょうか。続いて今、富んでる人、満腹している人、笑っている人は不幸であると言われています。これらの「不幸である」と言われている人が、もし自分たちを迫害し、悪口を言い、侮辱する者ならば、正直、心がすっとしてしまうのではないでしょうか。
〇なぜ敵を愛するのか
しかし、イエス様はご自身の弟子となる者は、「敵」が災いを被ることを喜んではいけないと、そのような文脈で、本日の愛敵の教えをイエスに従おうとする弟子たちに(一般の人にではなく)言われています。それは、旧約聖書で神様がすでに言われていることです。「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル書 33:11)自分に敵対する人に災いがふりかかったり、その人が死んだことを喜んではならないと。たとえ、その相手が独裁者で多くの人々を苦しめ、自身も苦しめられていたとしても、神様はどんな悪人でも、その人が悔い改めるのを望まれるからです。ですから、敵に親切にする、悪口を言う者・侮辱する者のために祝福を祈り、頬を打つ者にもう一方の頬をむける、下着をもとめる者に与えるめる者にはだれでも与えなさい、持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならないと、立て続けに無償の愛、非暴力対応をイエス様は言われます。実際これらは、逮捕されて十字架に掛けられるまでに、イエス様がとられた態度であり、ご自分の身を持って言われたことをなさったのです。
そして、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさいとあり、これは一般に「自分がされたくないことは、人にするな」といわれていることよりも積極的な倫理基準です。自分に良くしてくれない人によくする、返してもらうことを当てにしないで貸す、つまり無償で与えるということ、このようにイエス様の教えは、相手を問わずに、その人が敵であっても、愛しなさい、つまり憐み深くなりなさいと言います。その理由は、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」という神様の情け深さを、キリストの十字架により救われ、神の子供とされている私たちも学んでいきなさいとイエス様は招いておられるのです。
〇憐れみ深いとは
では、聖書でいう天の父なる神様の憐れみ深さとは?一般に「憐れむ」という言葉が用いられる時は、たとえばつらい状況の人から話を見聞きし、「可哀そうだな」と思うことができます。しかしその方が他人であればあるほど、深くその人に感情移入は出来ないし、ましてや自分に意地悪をする相手、敵対してくる相手に憐れみの心を持つ余裕はないと思います。旧約聖書で、神様が背信のイスラエルの民を憐れむときの表現は、ヘブル語で「レヘム」という語が使われており、それは「子宮」という単語が語源となっているそうです。つまり出産の際の母体の子供に対する慈しみの心という意味が転じて「憐れむ」となり、神様が人間を憐れむときの表現に使われている単語です。神様はどんなに人間が悪であって、神に逆らうことをしても、憐れんで下さる方であることがわかります。イエス様は、このルカの箇所の天の父が示す憐れみを基準にして、敵を愛しなさいと言われます。非常に難しい、実行不可能のことと諦めたくなります。
パウロはこのイエス様の教えを踏襲し、ローマの信徒への手紙12章17-21節で、
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
と記しています。ここでは、イエス様の愛敵の教えプラス、復讐は神がなさるから、自分でするなと言われています。復讐すれば更なる関係の悪化と、やられたらやり返すの繰り返しとなってしまうからです。ですから、敵の悪い仕打ちは神の裁きに任せ、私たちのすることは敵に対しては親切にし、全ての人と平和に暮らしなさいと言っています。それは、続く20節で相手に「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」と。これは、炭火とは清める意味がありますので(イザヤ書6:6-7)、良心がある程度働く人にとっては、意地悪をしている相手から親切にされると、これ以上相手に辛くしずらくなり、もしかしたら自分の行いを「悪かった」と悔い改めに導かれる場合もあるからです。しかし、残念ながら、私たちがどうしたからにかかわらず、変わらず悪をし続ける人々が多いというのが現実です。つまり私たちは相手の心を変えることは出来ませんし、人の心を変えることができるのは神様だけです。ですから、最終的に悪をし続けて止めない人に対しては、神様がその人を取り扱われることを信じて任せるしかありません。
〇愛敵は聖霊の働きで可能
たとえ敵を愛することが不可能に思えても、聖霊の働きで可能になることを信じて、「お言葉ですので」とペトロが魚が取れるのが不可能な状況でもイエス様に従い、沖に漕ぎだして網を投げると、奇跡で大漁となったように(ルカ5:6)、不可能に思えても、イエス様のお言葉だから従って、敵(つまり、自分を愛してくれない人、自分に良くしてくれない人、自分を迫害する人)を愛そうと決めることから始められます。聖書でいう「愛する」とは、友情や恋人・夫婦間で感情的にその人を好きになることではありません。愛とは感情的な好き嫌いではないのです。相手に忍耐することが愛することだとパウロも記しています(コリントⅠ 13:4,7)。極端なことを言えば、感情的に好きでなくとも、ただ神の愛で相手を愛することは可能なのです。また、このことを自分の力や持ち前の性格でしようとするのではなく、聖霊の働きにより、神の愛が注がれるように祈りながら(ローマ5:5)、一歩踏み出していけます。このような愛を自分自身で作り出そうとすると、できなくて自分を責め、行き詰まり潰れてしまいます。
敵を愛することができない私たちに対して、エフェソの信徒への手紙3章17節に
「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に 根差し、愛にしっかり立つ者としてくださるように。」
とパウロが祈っているように、キリストの憐みのこころを持つには、私たちの内にキリストが住んでいただくしかないと思います。そうすれば、私たちが、キリストの愛にねざし、愛にしっかり立てるよう内に住む聖霊が導いてくださります。他者に対して、自分の敵に対してさえ忍耐できるよう心が変えられていくことを待ち望みたいと思います。最初は何もできなくとも、その方々のために祈り始める。
現代においてこの聖書の箇所を読むとき、私たちがイエス様を信じ、主と呼ぶのであれば、主人であるイエス様の教えに従おうとする弟子として、また神様の子供として父なる神様の御性質、愛を学ぼうとする姿勢が問われています。そして、この高い基準に私たちが到底達することができなくとも、救いが取り消されることはありません。なぜなら、救いは恵であり、教えを守ることは救いの条件ではないからです。ただ、救われたあと、聖霊の働きで私たちが他者を神の愛で愛せるように変えられて行くことを信じ、神様に委ねていくという信仰を持ち続けることが必要とされます。敵をも愛しなさいと命じられるキリストは、わたしたちのために執り成しの祈りをしてくださる方です。私たちが敵を愛せなくて、「愛せるように」と祈り求める者の祈りを聞いて下さる。そして、覚えておきたいことは、天の父は憐み深い方であるということ、つまり、たとえ私たちが、ある人を愛せなくて、そんな自分を責め、苦しんでいるとしたら、そんな私たちに対しても憐れみ深い方であるということです。
神様は、無理難題を言ってわたしたちをほおっておかれる方ではありません。キリストが内に住んでくださり、聖霊も住んで下さるという聖書の約束を信じ、その聖霊の働きにより、神様の愛が注がれるように祈りながら(ローマ5:5)、まずは小さいことから、主イエスに従っていこうと決めて、一歩踏み出していけば、必ず神様は助けてください、愛を注いて下さります。これは信仰者にとって心強く、励まされます。日々、主に感謝しつつ愛を下さいと求めて、歩んでいきましょう。
(引用:新共同訳聖書)