神はエジプトのファラオに対して最後の裁きの宣告をモーセを通して語られました。真夜中に、エジプトの国中の全ての最初に生まれた子(初子)、家畜の初子が死ぬという裁きで、それは神の初子であるイスラエルを出て行かなせようとしなかったことに対する神の裁きでした(4:22-23)。ファラオはここまでしなければ、奴隷として必要だったイスラエルの民を出て行かせなかったという、ファラオの神に対する罪の結果が、こうした最大の裁きにつながったと言えます。しかし、同じ土地にいてもイスラエルの人々はある方法で区別されました。それは小羊の血でした。各々の家の門柱と鴨居に小羊の血を塗っておくならば、神様の裁きを免れることが出来るということで「わたしはその血を見て、あなた方の所を通り越そう」(12:13)。イスラエルの人々はこれ以降、この時期(太陰暦3-4月)を新年とし、出エジプトの神の救済の出来事:奴隷からの解放を覚えておくために、世々に「過越祭」として毎年祝われることになります。同時に種なしパンの祭り(徐酵祭)として、この7日間はイースト菌を入れないパンを食べるという祭儀を行うことになり、パンを発酵させず急いでエジプトを出たことの記念でした。パン種は罪や堕落の象徴として聖書では描かれています(1コリント5:7-8)。
こうして、ファラオとエジプト人は神の大きな災いを被り、イスラエル人を急き立てて、強制的に国から追い出しました。自分たちも死んでしまうと感じたからです(12:33)。こうしてイスラエル人々は、ヤコブの家族が移住してから430年間エジプトに滞在し、出る時の人口は男性の数だけで60万人、つまり妻子とその他のついてきた人々を含めると150万人以上と推定されます。エジプト寄留の間は奴隷として酷使されていましたが、その間大きな民族となって、再び神様が約束されたパレスチナの約束の地へとやっと戻れることになります。これは神様がアブラハムやヤコブにすでに予告していたことの実現となったのでした。(創世記15:13-14、46:3-4)
ファラオの罪のためになぜ多くの人々の命が犠牲にならなければならなかったのでしょうか。それは、そもそも、全ての人は神様に対して罪があり、罪に対してはその命が要求されるという、それほど人の罪は重いということが前提です。神さまは正義であり、罪に対しては裁きを下されるという厳しい面もありますが、一方でどんな罪をも赦し、なんとか人が裁かれて死なないように救おうとされる、情深い方です。小羊の血を鴨居と門柱に塗ることは、人間の罪のために、小羊が屠られて犠牲となったということのしるしであり、神様の人類を救おうとされる計画をあらかじめ示す型であります。小羊はイエス・キリストを指し示し、その血は命を表すので、その身代わりの血のゆえに、自身は罪があっても死ななくて済むということです。つまり、過越しは神様がご自分の独り子、イエス・キリストをすべての人の罪が赦されるため、身代わりとして十字架で死なれること(血を流される)を表しています。そしてイスラエル人以外のすべての民族も、この神様の救いの計画を恵みとして受け取り、信じてイエス・キリストの十字架の死と復活が自分の罪が赦されるため、罪と死の奴隷から解放が与えられるためと信じて新しく生きれるようにする道を備えて下さいました。つまり、この出エジプトの出来事はイスラエルの民族だけのためでなく、全ての民族のための、神様が人間を救おうとされる計画を表すことでした。