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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

〇受胎告知を受けたマリアのエリサベト訪問

本日はアドベント(待降節)の第一主日です。マリアが天使より神の子の受胎告知をされ、また不妊で高齢の親戚のエリサベトも男の子をみごもっているという話を聞き、急いで、山里に向かいユダの町に住むエリサベトの家を訪ねます。

 エリサベトは、マリアの挨拶を聞いた時、胎内の子が躍って、彼女は聖霊に満たされて預言的宣言をします(42-45節)。これは、ルカ1:15でエリサベトの夫ザカリアが、天使によりエリサベトの受胎の知らせを受けた時、「彼は…既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて」と言われたことの実現です。つまり、エリサベトのお腹の赤ちゃんであるヨハネが聖霊で満たされているので、主の母であるマリアの挨拶を聞いて踊ったわけです。そして、エリサベトはお腹の中のヨハネが聖霊に満たされたことによって、彼女も聖霊に満たされ、このような挨拶を言いました。

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」ルカによる福音書1:42-45

 

 マリアの賛歌はこのエリサベトに応答しての神様への賛美であり、詩編(詩編147:1-11)とハンナの祈り(サムエル上2:1-10)を引用していると言われます。マリアは幼いころから、聖書を伝え聞いていたでしょうし、それらが心に蓄えられていたかもしれません。しかし、どんなに聖書の言葉を聞いていても、それを心に留めていたとしても、マリア一人では、心の内なる喜びをこのように歌にして歌えなかったのではないでしょうか。つまり、この時エリザベトの挨拶に導かれ、マリアの賛歌が生まれたのでしょう。

 またマリアがサムエル記上のハンナの賛歌や詩編を引用していることから、マリアだけでなくイスラエルの先祖から現代の私たちに至るまで、このような神の恵みを与えられたことを感謝して、信仰の歌を新しい思いを持って歌うことができます。私たちが歌っている讃美歌も、多くは詩編からとられていますし、日常生活の中で神様への感謝の思い、神様の御業のすばらしさを声に出して歌うことができるのと同じです。このマリアの賛歌の内容を3つに分けますと

 

〇神がマリアなされたこと(46-49節)

46-49節で、マリアは、神様がマリアの救い主となられたことを感謝しています。マリアも一人の人間として、救い主が必要だからです。また、この賛歌はマリアを含み、身分の低い人、貧しい人、抑圧された人、飢えた人たちにとって、自分よりもっと大きな力、救い主なる神が、私たちに目を留めて下さる、顧みて下さることは大きな喜びであり、励ましとなることでしょう。

そして彼女を用いて神の子をこの世に送るという、力強い偉大な働きをなさったこと、「自分はなんと幸いであろう」と次世代の人も言うだろうと、彼女の全身全霊で喜びを言い表しています。

イスラエルの民は長年、神様が救い主、メシアを送って下さることを待望してきました。ですから、み使いが1:31で「イエスと名付けなさい」とマリアにいわれたのは、イエシュア(ヘブル語で「主は救う」という意味)という、当時に男の子によくつけられる名でしたが、その名の意味を知っている親にとっては、この子がローマの圧政のもとに苦しむイスラエルの民を救ってくれるべく、メシアに将来なるのではという期待を込めて、名付けた可能性があります。そのメシアを聖霊により超自然的な力でお腹にみごもるという、大役にマリアが選ばれたことは、彼女にとって非常に驚くべき出来事であります。しかし、彼女は「そのことがお言葉どおり、この身になりますように」1:38と信仰で受け止められました。まだ10代の時と言われる少女が、高慢になることなく、謙虚に「身分の低いこの主のはしために」といって、神様の恵をうけとれたことは、素晴らしいと思います。マリアは、私たちが神様からの恵をうけとる姿勢の模範となります。

 

〇神が神を畏れるすべての民になされたこと(50-53節)

次に、20-23節では神様は憐れみ深い方であり、その憐みは、世々にすべての神を畏れる民に及ぶということを歌っています。私たちの住む社会は、構造的に権力と富と名誉を持つ者が力を持ち、そのシステムはどうしようもないと、無力に感じざるを得ない状況です。しかし、神様の恵はこの世のシステムや私たちの評価・思いとは逆に働かれ、無力なものを用いることは、パウロも 1コリ1:26-28で記しています。

 

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」

 

神様が治める神の国では、無力な者たちが神の恵みを受け取り、神の助けを経験できると、マリアは宣言しています。このことは、イエス様が山上の教えで、「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。」と以下8つの「幸いである」者に共通するものがあります。神を畏れる者は、この世とは逆説的な幸いを与えられます。

〇神がイスラエルのためになされたこと(54-55節)

54-55節では、神様はイスラエルの状態にかかわらず、その民を受け入れ、憐れみを忘れず、神様のアブラハムとその子孫になされた約束は変わらないことを歌っています。そして、アブラハムの子孫とは誰かということに関し、それは単に血縁があるから子孫というのではなく、イエス・キリストを信じる信仰にってどの民族でもアブラハムの子孫とされると、パウロも記しています。

ローマ4:13-16で

「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。 」

ですから私たちも、このマリアの賛歌で歌われているように、アブラハムの子孫、神の民として、神様に受け入れられ、神様の憐れみをうけ、祝福を受ける約束は変わらないということです。私たちは、約束したことを実現される力を神様が持っておられるということを信じて、希望を持ちたいと願います。

この賛歌は、この世に人として生まれて来てくださった、イエス・キリストの地上での業を指し示しています。私たちもマリアのように、神を喜びを持って賛美し、神が送って下さった御子イエス・キリストの救いの業を感謝したいと思います。個人としてだけでなく、新しいイスラエルである教会、神の民として、共に神の救いの恵を感謝して、アドベントの時期に特に覚えていきたいと思います。  (新共同訳聖書引用)