〇預言者エゼキエルの召命
エゼキエルは、その名の意味が「神は強める」であり、祭司の家系(1:3)の人でした。彼は、紀元前6世紀前半にユダヤ王国がバビロニア帝国に包囲され、一回目に捕囚となりユダ王国のヨヤキン王と共にバビロンの地(現イラクの南部)へ連れて行かれました。彼はその捕囚の地で活動した預言者で、同時期にエレミヤがエルサレムで預言活動をしていたので、彼らはお互い知っていた可能性があります。
本日の箇所は1章から続く、彼がバビロンの地で神様から預言者としての召命を受けた箇所です。彼の任務は厳しいものでした。彼が語りかける人々は2:4-5に記されるように恥知らずで強情な人々で、神に逆う「反逆の家」だからです。エルサレムのエレミヤもそうでした。ユダヤの王(傀儡で立てられたゼデキヤ王)も高官も民もエレミヤの語る神のメッセージを聞こうとしませんでした。彼らは自分たちの神に対する罪を認めず、神に立ち返るどころか、エレミヤを偽預言者として非難し、牢獄にいれたり打ち叩いたり迫害したのです。エレミヤは神の言葉を語っても、聞き入れられず、エルサレムの人々は裁きにあい最終的にエルサレムの町は滅ぼされ、人々はバビロンへ連れ去られるという、この神の裁きをあらかじめ預言し反逆の民に伝えなければならなかった、そして裁きが下されたということを民と共に経験したのがエレミヤであり、彼が「哀しみの預言者」と言われるゆえんです。
エゼキエルの預言活動も非常に困難でした。神は彼を通して、エルサレムから遠く離れた捕囚の地にいる人々に神の言葉を伝えました。バビロニアでの捕囚生活は、比較的自由で、彼らは神殿の代わりに、その土地で「会堂」という場所に集まって主を礼拝し、ユダヤ民族の伝統を継続することができる暮らしを与えられていました。そこでも、民は神は遣わされたエゼキエルの言葉を聞き入れなかったのでしょう。神はこのことをあらかじめエゼキエルに伝え、彼らはエゼキエルの言葉を聞き入れなくとも、とにかく神の言葉を語らなければならないと命令します。
〇神が強める
神さまは、エゼキエルにそのような困難さをつたえるだけでなく、神様が彼を守りと助けると言われます。つまりエゼキエルを、どんな反対にも負けることのないよう強めると約束し、励ましますのです(「あなたの額を岩よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らが反逆の家だからといって、彼らを恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」3:9)。まさに彼の名前の意味「神は強める」のとおりに、神様がエゼキエルを強め、神の言葉を伝える者の直面するであろう反対、迫害に耐えられるようにして下さるのです。これは、使徒パウロの時もそうでした。彼は自分の人間的な弱さにおけるキリストの力についてコリント2の手紙で記しています。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(コリントの信徒への手紙2 12:9-10)
パウロ自身は弱いのですが、その弱さにあってキリストの力が働かれるから、弱さを誇れるのだと言っています。パウロも彼の宣教において、彼が復活した方ご自身によって任命され、イエス・キリストの使徒として(1コリ1:1)、キリストの使者として(2コリ5:20)として、逆境の中でキリストの福音を宣べ伝えました。それは、弱いパウロをキリストが強め、守り、励ましたからこそ、また神から与えられた希望を基に宣教を続けられたのでしょう。
〇自分たちの間に預言者がいたことを知る
エゼキエルは2章8節以下に記されるように、巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさいと主より命令されます。
「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』 わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、 言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。(エゼキエル書3:1-3)
巻物は神の言葉を現わしていますので、これを食べるという象徴的行為は、神の言葉をむさぼり食べる、飲み込むように読むという意味があります。そしてそれらを読むと蜜のように甘いとエゼキエルは記しています。その巻物には裏表に文字が記され、哀歌と呻きと嘆きの言葉が記されていました(2:10)。それらはエルサレムに起こる裁きに対する神様の悲しみ、嘆きが記されていたかもしれません。
ヨハネの黙示録には、これと非常によく似た経験が記されています。10:9-11でヨハネは巻物を渡され、それを食べよと命じられます。すると、それは口の中で蜜のように甘かったのです。しかし、彼は「それは私の腹の中で、苦くなった」とも言いました。この苦さは神の裁きが地上に必ず下されるであろうことを悟ると、それは心が痛み、苦いものとなるからとされます。同時に、蜜のように甘いのは、神の言葉の内容が将来神の王国において到来すること、イエスが再び来られ、義のうちに全てを統治される、新しい栄光の時代の希望と約束の甘さを表しています。キリスト者にとってこの希望を互いに語り合うことは喜びがあり、慰められ、励ましとなります。
エゼキエルも、エルサレムがバビロニア帝国に陥落させられるまでは裁きの言葉を、そしてその後はイスラエルの回復の預言を語っています。有名なエゼキエルのイスラエルの回復の預言は37章の枯れた骨の復活です。この預言により国を失って絶望するイスラエルの捕囚の民に、神の言葉を語り、神の霊を吹き入れることによって再生することを示しています。このように神の言葉は、厳しい裁きと回復と両方を含みます。エゼキエルの預言を聞く人々が都合悪い内容は聴こうとせず、耳障りの良い言葉だけ受け入れるかもしれない、それでも人々は「自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」(2:5)と主は言われます。
〇神の言葉の力
また、預言者イザヤも神の言葉の力についてこう記しています。
「雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:10-11)
このイザヤの預言では、神の言葉を天からの雨雪に譬え、主の救いの約束と働きが確実であることを明らかにしています。雨や雪が天から地に降り注ぐと、地はそれらを吸収し、食物の生育を促し、私たちの食べ物となります。また水蒸気となって天に戻っていくという循環があります。
主の救いの言葉がいったん人の口を通して、もしくはある人が聖書を読むことによって、伝えられると必ず実りをもたらし、主の御心が実現するということです。天からの雨雪は、人間がコントロールできません。このように主の救いの計画を人の力で押しとどめられないことも示しています。そして地に吸い込まれた雨雪は、その働きが目に見える形ですぐにはわからなくとも、確実に地にしみこんで作物、木々が生きる力を与えるように、神の救いの言葉も人の心に染み込みんで、時間がかかっても心の中で力強く働き救いの実りをもたらすのをたとえています。わたしたちは、人がすぐに救いに導かれなくとも、以前まかれた御言葉の種がいつかその人のうちに芽を出し成長することを期待し、この神の約束に希望をもって家族や知人の救いを祈り続けたいと思います。
へブライ人への手紙の著者は
「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることが出来るからです。」(へブル6:12)
と神の言葉の力を記しています。私たち人間の言葉でさえ、他者に良い影響を与えるもしくは言葉で人を傷つけたり、悪影響を及ぼすということが可能ですが、それでも人間の言葉には人を救う力はありません。しかし、神の言葉には人の魂に働きかける力があるのです。
イエス様は十字架の死により私たちを贖い、復活され、私たちに永遠の命を与えてくださっています。このイエス様の命につながり、生きた水が私たちの内から流れ出るようにてくださっています(ヨハネ7:38)。わたしたちも神様から福音を告げ知らせるよう、一人一人が呼ばれています。私たちは、皆が伝道者ではない、皆が雄弁ではなく、能力はなく、説得力もありません。しかし、神の言葉に力があり、必ず虚しく神にもどることはないと神様が言われていることを信じていきたいと思います。わたしたちが自分の能力によって伝えようとしなくとも、様々な方法やタイミングで、神の言葉を伝える者として用いられ、後は神の言葉が聞いた相手の心に染みわたるよう、聖霊が働かれるよう、互いに祈っていきましょう。
(新共同訳聖書 引用)