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ester-chanのブログ

聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 先日TVで、東京の街中に歩いている人に突然声をかけて、「今から故郷に帰りませんか?」と地方出身の方に話をもちかけ、突然帰って家族にサプライズで会う場面を取材するという番組を見ました。その男性は19歳の時に上京して10年近く故郷に帰っていない方で、お父さんと久しぶりに会って話すことが出来ました。彼はこの番組の企画がなかったら、おそらく帰郷をしないでいたかもしれない、そんな事情がある親子の関係が伺えました。息子と父の久しぶりの再会は感動的で、彼のお父さんは本当に嬉しそうでした。

 聖書で「放蕩息子の帰還」というたとえ話をイエス様が話されています。ある人に二人の息子がいて、弟の方が「お父さん、自分の分の遺産を今、下さい」と言い、父はその通りに現金化して次男に与えると、それを持って彼は遠い国に旅立って行きました。そしてあっという間にそのお金を使い果たし、食べるのに困る程落ちぶれてしまいました。誰も彼に食物をくれませんでしたが、彼に豚の世話をする仕事が与えられました。すると彼は我にかえって、「そうだお父さんの所に帰ろう。自分が悪かったと、天の神様に対しても、お父さんに対しても謝って、もう息子の資格はないので雇人にして下さいと言おう。」と。そして家に帰ると、彼の父は喜んで息子を抱きしめ、息子として迎え、「死んでいたのに、生き返った、いなくなっていたのに見つかった!」と大喜びで宴会を開きました。しかし、長男をそれを見て怒りました。自分は父の元で真面目にやってきたのに、一度も友達との宴会を開いてもらったことがない。なのに放蕩してきた息子の為に、宴会を開くとはと。父は長男をなだめ、「お前はいつも私と一緒だったし、私のものはお前のものではないか。おまえの弟は死んでいたのに、生き返った、いなくなっていたのに見つかったのだから、宴会を開くのは当たり前だ」と。

 この譬え話を聞いて、どう思われるでしょうか。ご自分をこの3人:父、長男、次男のどれに共感するかによって感じ方、とらえ方が違ってくるでしょう。このイエス様のたとえ話では、父が天の神様で、二人の息子が人間として描かれています。なぜなら、この譬えの直前にも二つと同様のたとえ話(見失った羊と無くした銀貨)をしていて、3つの譬えに共通しているのは「失われたいた」ものが「見つかった」ことの喜びを「このように一人の罪人が悔い改められば、神の天使たちの間に喜びがある」*と両方共に結論づけられていることからです。

 天の神様は、地上の父親でどんな優しい、包容力のある父親がいたとしても、それと比較することができないほど愛に溢れる方です。強制的に「戻ってこい」と言わない方です。あくまでも一人一人が、自分はどこから来たのかと考え、悩み、ふと我に返って、自分は神様に造られた存在であること、造られた目的、存在する意味を知って、神様のところに戻ろうと決めるまで忍耐を持って待っておられる方です。そして今まで神様を信じずにいたことを「ごめんなさい」と謝れば、つまり今までの自分本位の生き方から180度転換する生き方(これを「悔い改め」と聖書ではいいます)をしようと決めて、天の父が送って下さったイエス・キリストを救い主として信じると、天国では大きな喜びがあるということです。神様の愛は無償であり、見返りを求めません。私たちは、いつでも、今迄の人生で何をしてきたとしても、ただイエス様のもとに行けば、神の子供としての特別な待遇(譬えでは一番良い服を着せ、指輪をはめて、履物をはかせる)を神様の恵として与えてくださります。ただ、天の父のもとへ帰って、悔い改めるだけでよいのです。神様は今も、一人一人が戻って来るのを待っておられます。

 

「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」 ルカによる福音書15章32節

 

*ルカによる福音書15章10節