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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

〇イエスの誕生について

  本日の聖書箇所ルカによる福音書のイエス様の誕生の記事は、非常に簡潔に淡々と語られています。2章8節からの天使の軍勢が現れ、野宿をしていた羊飼いたちに救い主の降誕を告げられるという驚くべき、奇跡的現象が記されているのに比べ、1-7節のイエス様ご自身が生まれた状況に関しては、何の装飾もなく、月が満ちて生まれた赤子を布にくるんで飼い葉おけに寝かせた、とそれだけしか記されていないのです。

一方、私たちが目にするクリスマスの飾りの馬小屋セット(「プレゼピオ」と呼ばれるそうです)には、馬小屋に飼い葉おけのイエス様が中心に置かれ、ヨセフ、マリア、羊飼いたち、そして3人の博士たちと家畜が勢ぞろいしています。しかし、現実はイエス様がお生まれになった場所が馬小屋かどうかも記されていませんし、わかることは、彼らが泊まる部屋はなく家畜が餌をたべる場所、つまり外の小屋か洞窟で出産をしたということであり、身重の女性の出産のために、誰も部屋を提供しないとは、なんと非情な世の中なのでしょう。出産のための衛生的にも信じられない環境の中で、助産婦もいない、おそらくヨセフが一人でお湯を沸かして出産するマリアを助け、なんとか赤ちゃんを産んだと思われます。そしてその赤子を寝かせる場所は、家畜の餌箱、飼い葉おけしかなかったのです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(7節)は、まさにこの世がイエス様を受け入れる余地はない、と言わんばかりのイエス様の受難の生涯の物語を予兆しているかのようです。 

〇人々が何から救われたい(救い主)と望んでいたか

 イエス様の御生涯については、イエス様が宣教をおよそ30歳頃に始められたと記され、最初は会堂で話しをされていましたが、そのうち会堂では話せなくなり、野原や外で群衆に教えを話すようになり、またユダヤの地へも何度か行かれ、野宿を強いられる伝道旅行を弟子たちとされていたことが聖書に記されています。イエス様は安易に「弟子になりたい」という人には、弟子の覚悟をはっきり言われます。「キツネには穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」(マタイ8:20)

イエス様の権威ある教えと奇跡で、多くの群衆が一時はイエス様の周りに集まり、「この人がユダヤの国をローマ帝国の支配から救い出すメシアではないか!」と期待されていましたが、結局、イエス様が彼らの期待通りではなかったのです。イエス様は宗教家たちに妬まれて、不当な裁判にかけられ、「十字架につけろ」と群衆たちに叫ばれ、人々にあざけられ、唾をかけられ、兵士たちに虐待され、弟子達にも見捨てられ、たった一人で十字架で死なれるという苦難の道を行かれました。つまり最初の誕生から十字架の死に至るまで、世は徹底してイエス様を拒否し、イエス様はそのことをあらかじめわかっていても、私たちを含むすべての民を救う為、私たちの罪を背負って十字架にかかって下さったのでした。神の御子イエス様が、この世に救い主としてお生まれになったのは、その受難のためであり、神様の救いのご計画に従順に従われたのです。

当時のユダヤの人々はローマ帝国の圧政に苦しみ、今、そこから解放してほしいと、その為のメシアを望んでいて、自分たちの罪から救われるなどということは考えていなかったのです。もちろん、洗礼者ヨハネが、イエス様が宣教なさる前に「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(ルカ 3:3)と記されるように、悔い改めを説いて、人々が救い主イエス様を迎える準備をしていました。多くの人が洗礼者ヨハネから洗礼を受けましたが、人々は罪のことを忘れてしまうのです。

現代に生きる私たちも同様です。私たち人間は皆、罪から救って下さる救いが主が必要ですが、残念ながら、多くの人々は自分さえ、今さえよければ良くて、真の神を信じようとしない自身の罪と向き合うこともなく、自分を正しいとし、神を畏れることなく、他の事で心を満たそうとし、救い主を受け入れる余地がないかのようです。昔から、人種に関わらず人間は同じだと言えます。しかし、神様はそんな我々をも憐れみ、御子イエス様の十字架に示された救いの手を差し伸べたまま、ずっと何千年も忍耐されていることを知り、神様の愛の深さを改めて思わされます。

〇神の子の誕生の当日に居合わせた唯一の人々:羊飼い

 ルカによる福音書はイエス様の降誕を伝える天使たちのようすを華やかで、スペクタクルに描写しています。「今日、ダビデの町で、」とあるように、イエス様が生まれた当日に、神様はこの知らせを、野宿をしている羊飼いたちだけに知らせました。羊飼いという職業は、当時は動物を飼うという、24時間で休みがない仕事であって、安息日を守れない、つまり土曜日の礼拝に行けない人々ということで律法を守れない罪人という扱いでした。一方、エルサレムの神殿では多くの家畜が生贄の犠牲として定期的に捧げられ、特に年過越しの祭りの時に多数の小羊を屠るという必要性から、羊飼いという職業は当時の社会で宗教的にも必須であったのです。にも関わらず、現代のようにシフト制という交替で羊をみるという制度もなく、その職務をおしつけられ蔑まれた職業だったと言われます。ルカによる福音書1章のマリアの賛歌で、「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」(1:52)とマリアが歌っていたとおりに、救い主なる神の子イエスの誕生を、権力のある宗教家たちに知らせず、身分の低い羊飼いたちに初めにお知らせになりました。そして、天使たちを通して「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(2:10)とあるように、イスラエルの民だけでなく、救い主の誕生がすべての民に大きな喜びを与えるということを告げています。イエス様はユダヤ人だけの政治的な救い主ではなく、全人類の救い主であられることを天使たちは公言しています。

羊飼いたちは「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(2:16)と急いで行ったと記されます。羊飼いたちは、当時は街頭もなく、真っ暗な町のなかをどうやってその場所にたどり着けたかは記されていません。おそらく天使たちの不思議な導きにより、布にくるまって飼い葉おけに寝かされているイエス様を探し当てることができたのです。

この羊飼いたちは、救い主が生まれた喜びを周りに知らせましたが、私たちはお生まれになったことの喜びだけでなく、イエス様が私たちを罪と死から救う為に十字架上で私たちの罪を贖い、死なれて3日後に死人の中からよみがえられたこと、天に戻られたこと、そして初期のキリストの教会が全世界にへ福音を宣べ伝え、各地で教会が建てられていったことを聖書を通して知っています。ですから、個人的に、信じて魂の救いを得、神の子供として、残る人生を聖霊が与えられて新しく生きられるという、素晴らしい体験しているので、羊飼いたち以上にキリストにおける神様の恵を、キリストの良い知らせ(福音)を自分が受けたこととして、もっと証しできます。

〇御言葉の光に導かれ、クリスマスの喜びを伝える

 わたしたちも、現代においてだれもがキリストの福音が知らされ、信じて神様の恵にあずかり、その後、キリストの福音を証しする者として用いられます。しかし、日常生活の中でいつ、どのようにキリストを証したらよいかはわからない人のほうが多いのではないでしょうか。しかし、詩編119編105節に記されるように

「あなたの御言葉は、わたしの道の光  わたしの歩みを照らす灯。」

とあるように、御言葉が私たちがこの世を歩む上での道の光、わたしたちの歩みを照らす灯でありますから、かならず、キリストを証しする機会やことばが与えられ、そのように導かれるという希望が、聖書のこの御言葉を通して励まされます。牧師だけではなく、キリストを信じた人は誰でもキリストの弟子であり、それぞれの置かれた立場でキリストの福音を証するように神様が呼ばれています。証しについて、自分の知識や能力ではなく、それが御言葉の光に頼って可能であることを信じて、祈り求めていきたいと思います。

クリスマスが単なる商業的なイベントではなく、全ての民のための救い主イエス・キリストが誕生されたことを祝う意味を、このクリスマスの機会に喜びを持って多くの人々に知らせていきたいと願います。そして、クリスチャン、キリストを信じている者はキリストにある希望を持っていること、考え方、人との接し方において、キリストに倣うものとして周りの人々に神様の愛を示していきたい、そして羊飼いのように神様をあがめ、賛美しながら日々過ごしたいと願います。         (新共同訳聖書引用)