ようやく、エジプトの奴隷状態から解放され、神様が導くカナンの土地へ進んでいくと、エジプトの王ファラオが「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」(14:5)と奴隷という労働力を失ったことを後悔し、エジプト全軍を自ら率いて、戦車でイスラエルの民を追いかけてきたのです。
人間というのは弱いもので、あれだけたくさんのエジプトに起こされた神様の大きな業を見てきても、いざエジプトの軍勢が追跡してきているのを見て恐れ「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましですと言ったではありませんか。」(11-12節)とモーセをなじります。実にこの後、民は何度もこの言葉「エジプトの方がよかった!」を繰り返すのです。水がない、食べ物がない、敵に殺される等、今までなされた奇跡的な神様の力を全く信じず、奴隷としての苦しみを忘れ、目の前のことにつぶやき、恐れに支配され、神への不信仰を表します。なぜでしょうか。
しかし、モーセは異なります。モーセは神様を信じ、民に「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。…主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(13-14節)と言い放ちます。そして神様はその通りに、雲の柱をエジプト兵とイスラエルの民の間に置き、彼らが進軍できないように妨害しつつ、モーセに杖を海に向けるように命じ、そのようにすると、目の前の海が二つに分かれ、陸の道を作り、イスラエルの民を向こう岸へ渡らせるという、映画化されて有名なシーン(「十戒」「エクソドス」「プリンス オブ エジプト(ディズニーのアニメ)」)ですが、驚くべき奇跡がおこります。そして、民が渡り終えた後モーセは杖を海に再び向けて、エジプト軍が渡っているその時に海の水を元に戻し、エジプト軍が飲み込まれてしまい、イスラエルの民はエジプト軍の追跡から逃れることができたと記されます。
15章ではこの神様の驚くべき御業を見て、イスラエルの民は賛美をしたと記されています。
「主はわたしの力、わたしの歌 主はわたしの救いとなってくださった。 この方こそわたしの神。
わたしは彼をたたえる。 わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」(15:2)
一般に音楽というのは私たちの心の中にある思いを表現するのに、非常に魂に響き、他者に影響を与えるほどの力があります。音楽を通してわたしたちは、神様が自分にして下さったことの感謝の気持ちを表すことができ、それらが讃美歌と呼ばれます。西欧の中世時代の芸術においてもバッハ、モーツアルト等、すばらしい音楽は宗教音楽から発展しています。また賛美は時には悲しみ、苦しみを神様に訴え、神様の救いを求める詞もあります。聖書の中の「詩編」という書簡にはそのような詞が記されていますが、神様への救いを求める詞には必ず、救って下さるだろうという希望が盛り込まれ、神の救いを待ち望もうと自分の魂に言い聞かせているような表現の詞もあります。
私たちの生活の中で、想定外のこと、突如起こる災害など、心乱れることが起こるのは、誰もさけられません。クリスチャンになったからそれらから免れるとは聖書に記されていません。そのような時に、不安な気持ち、恐れを持ち続けるだけでは自体は好転するどころかさらに悪い状況を引き起こすこともあります。しかし、それをどう前向きにとらえ、乗り越えられるかと考える時に、自分の意思、才能の力や他人の力に頼るのか、もしくは聖書に記される多くの人々の証言:神様が助けてくださった、救って下さったを通して、神様を信じ、神様に依り頼むのか、このどちらかに分かれるのではないでしょうか。多少の不安はあったとしても、基本的に神様を信じ、イスラエルの民に様に不平を言うのではなく、今まで神様がどのように助けて下さったを覚えて感謝し、今後も助けられるという希望を持って日々歩んでいきたいと願います。