〇ヨブ記:正しい人ヨブにおこった災難
ヨブ記というのは、旧約聖書の書簡の一つですが、時代背景はアブラハムやイサク、ヤコブが生きていたときの族長時代(紀元前2000年)の頃の伝承で、この形に編集されたのは紀元前5-3世紀の間と一般に考えられています。
ヨブ記は最初のプロローグと最後のエピローグは物語調ですが、後はほとんどが詩です。1章1節「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」とあり、ウツは死海の南東、アラビア半島の北あたりだと言われます。最初の物語ではある時、天での神様と天使達の会合にサタン(悪魔)が登場し、その時ヨブのことが話題に上りました。神の目から見てヨブは正しかった人です。しかしサタンがそのヨブを「ヨブが神を恐れるのは、神が彼に財産を与え祝福しているからであって、もし、それらがなくなったら神を呪うでしょう。」と神に告発しました。そこで、神はサタンがヨブの持っている者に手を出すことを許されました。ここから、この世で起こる艱難、苦難はある意味、サタンが引き起こし、サタンが悪を支配しているようでいても、その上に神がおられて、サタンの出来ることにも限界があることがわかります。そして一日うちに、ヨブは子供全員10人を失い、財産である多くの家畜も僕達もほとんど失いました。しかし、ヨブは神を呪わず、神を褒め称えました。1章20-22節
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
そしてさらに、ヨブは健康も失われました。
〇ヨブの友達との問答
このヨブの不幸を伝え聞いて慰めにきた友達らとヨブの問答がこの後の長い詩の形で続きます。慰めるつもりで、結局友達は「こんなことがおこったのは、おまえが何か悪いことをしたからだ」とヨブを責めます。その一人のエリファズは4章6-7節で、ヨブが神を畏れる生き方をせず、罪を犯した故に災いが下っていると主張しました。ヨブの友人たちは、自分たちの考える応報思想が神様の正義のご性質だと考えていたのです。しかし、神様は友人たちに向かって「お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。」(ヨブ記 42:7)と怒られました。
災害や家族の死は突然、誰にでも起こりえます。「なぜこんなことが起るのか」という問いには、この世では答えは与えられないかもしれません。人は他人を責めるか、自分を責める、もしくは運命という説明のつかない言葉で諦めようとしますが、それでは心は暗く、悲しい思いを心の底に持ちながら生きていく方もおられるでしょう。しかし理性や知識では説明のつかないことがほとんどであり、人間の理性で考えうることには限界があります。すると人間の理性で理解できないことは迷信であると考える人があり、そういう人は自分の頭で理解しうることしか理解しようとしないという”高ぶり”があることに気がついていません。それはプライドです。それが無意識に、人は己が神のようであろうとしていることに気が付かないのです。
私たちの苦しみは、単に原因と結果により捉えきれないものであり、だからヨブは神様に叫びます。31章35節で「どうか、わたしの言うことを聞いてください。全能者よ、答えてください」と、主なる神に直接答えてほしいという訴えます。しかし42章で神はヨブの質問には答えず、「お前は、いったい何者であるのか。」と、知識もないのに神のご計画を語ったヨブに「聞け、わたしが語る」と「わたしがお前の神である」と全能の神の力と秘密について語られ、神がなさることを人間が初めから終わりまで見ることが出来ないことを示されます。こうして、ヨブのような潔白な人でさえ、高ぶりがあり、それを神の前に低くなって、「自分は塵にすぎません」と神の前に悔い改めました。神の前にへりくだって、神を信じること、神を畏れることが神に造られた人間に必要であることをこのヨブ記からも読み取れます。
〇ヨブ記を通してキリストに出会った拉致被害者 横田早紀江さん
1977年11月15日、突然中学生の娘さんが北朝鮮により拉致されるという信じられない、受け入れがたい、耐えがたいことが横田さんに起こりました。彼女は毎日娘を探し、自分を責め、生きる望みが絶たれたようで、心に空しさが満ちるばかりでしたが、ある時、一冊の聖書を友人から頂き、ヨブ記を読み始めたそうです。彼女はどんな苦難の中にあっても、神に信頼するヨブの姿に、言いようもない感動を覚え、さらに読み進めていくと、人を超えた深く大いなるもの、真実の神の存在を感じたそうです。
「少しづつ聖書を知るうちに、自分のちっぽけさや、汚さに気がつかされていきました。そして私のように罪あるすべての人間を救うため、キリストが十字架の苦しみを体験され、血を流して死んでくださったことを知り、深い感動を覚えました。」彼女は人知の及ばないところにある神の存在は、この世の悲しみ、苦しみすべてのものを吞み込んでおられることを信じることができ、神を受け入れたそうです。神様の愛の中に包まれて自分は愛されていることを思わされ、自ら苦難を生きてきた者として、悲しみ、苦しんでいるすべての人へ、励ましの言葉を語られています。(「私たちはいつも覚えられている」横田早紀江、いのちのことば社、2018より)
〇ヨブの叫び:神と人との仲介者がいてくれたら
ヨブ記では、イエス・キリストを指し示しているとされる箇所が、ヨブの訴えの中に記されています。彼は友人たちから責められれば責められる程、自分の潔白を主張しますが、自分は神の前に正しく潔白でいようとしてきたけれど、完全ではない、神にくらべると自分は小さい存在で、この隔たりを誰か仲裁してくれる人がいてくれればとヨブの叫びが出てきます。
「このように、人間ともいえないような者だが
わたしはなお、あの方に言い返したい。
あの方と共に裁きの座に出ることができるなら
あの方とわたしの間を調停してくれる者
仲裁する者がいるなら」 (ヨブ記9章32-33節)
人間同士だったら仲裁してくれる友人、もしくは司法機関がありますが、それらにも限界があり、正しく仲裁が行われていないのが現状です。ユダヤ教の祭司は人と神様との間をとりもつ職務でしたが、所詮罪ある人間なので、神と人との仲裁者としては不完全でした。祭司たちは、完全な大祭司であるイエス・キリストが来られるまでの影、型を示すものであることが、ヘブライ人の手紙でも記されています。テモテ第一2章5節には、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」とあります。ヨブ記にも人と神との仲介者であるキリストの必要性が現わされています。
私たちは感謝なことに今、仲介者:大祭司であられるイエス・キリストが与えられています。万物の創造主であられる方、神が肉体を取られ、人々の間に住まわれましたとヨハネ1章14節に記されています。この神の子イエス・キリストにあって、私たちはヨブが叫んでいた、大きな神様との隔たりを完全に埋めてもらえます。神はご自分が造られた人が永遠に自分と生きてほしい、ご自分の存在を信じてほしいと、そのためにイエス・キリストをこの世に送られ、十字架で神に対する罪の罰を私たちの代りにうけさせて、私たちが赦されて神と和解ができて、永遠に生きれるようにと計画されました。これが神の御心です。たとえ私たち人間の罪が大きくて、罪に対しては死という結果を招くとも、その罪から救う贖い主、主イエスを信じることで、永遠のいのちを神の賜物としてうけることができます(ローマ人への手紙6章23節)。
〇主を仰ぎ見て
ヨブは友人たちとの対話で、神様に向かって、叫びます、なぜこの世に苦しみがあるのか?悪があるのか?この世界はなぜこうなのか?と疑い、神への告訴、そして自分は無実であることを主張してきたけれども、これらすべてを放棄しました(42:5-6)。つまりヨブがそのような自分を退けた時、反抗し神と争うヨブから、最初の時の神に従順なヨブ、自分に降りかかった災難を信仰において受け入れるヨブ(1:21,2:10)に戻っています。これは、主からの言葉を直接頂き、主を仰ぎ見て、へりくだった時に、自分を退けて、悔い改めることができたのです。
私たちは主を仰ぎ見ているでしょうか。生活の中で、なぜこの世はこうなんだ、ああなんだとつぶやかず、神様の前に自分を退け、悔い改めたことがあるでしょうか。真に主を仰ぎ見ていれば、おのずとそのようなつぶやく、古い自分は速やかに去っていき、神に救われた、神の民とされた新しい自分が現れてくる、そして新しいものの見方が現れてくることを、このヨブ記から学ぶことができるのではないでしょうか。
結末の物語では、再びヨブに多くの子供達が与えられ、家畜も増やされ失った以上に大きな祝福を与えられました。しかし必ずしも、ヨブのケースのように苦難の後にこのような物質的な祝福が伴うというわけではありません。確実なことは、私たちには神と和解できるように仲介者である御子キリストがおられるということ、そして罪ある私たちと神との大きな隔たりを十字架によりうめてくださったことです。この神様の愛と恵を深く覚えれば、理解すればするほど、ヨブのように自分の存在が小さいものであり、全てを理解し納得できない思いをもちながら主に委ねることを信仰で決意していけば、苦難の中にあってもキリストにあってこの世で希望を頂いて歩んでいけるのではないでしょうか。
神様は苦しみの中から私たちを助け出して下さる方です。神様の計画の基にその先があること、つまり神様の意志に全面的に委ねようとする信仰が、火の中で燃え尽きない柴のように(出エジプト記3:2)火によって精錬されて強められることを、御言葉から確証を得たいと願います。神様は、乗り越えられない試練は与えらないし、試練を通して練られる品性、そして希望が与えられるとローマ5章にあります。また苦しみの時に、慰め主である聖霊が慰めを与えて下さります。そして神は永遠の愛をもってすべてのことを益と働かせてくださっています。この神との愛の関係の中に自分が置かれていると知った時に、人間の知識を超えたところにある神の御業を受け入れ、神が共にいて下さる、共に歩んで下さることを信じて神の平和によって支えられることを信じ、互いのために祈りましょう。
(引用:新共同訳聖書)