毎年、教区教師部主催の研修会が開催され、今年は「レクティオ・ディビナによる御言葉の黙想と説教」という主題で、日本ルーテル教会から講師を招いて、御言葉の黙想、霊的生活の必要性を学ぶ機会が与えられました。以前から黙想をして説教を作るという作業はしていたのですが、正直、聖霊から語られているとうより理性的に御言葉を捉えている自分がいて、どうやったらもっと深い霊的な黙想ができるのかと求めていました。私は残念ながら都合で部分参加しかできなかったのですが、それでも講師のお話を聞いて、目から鱗というほど心に響く内容で、御言葉を「読む」というより「聴く」こと、御言葉を思い巡らし、沈黙の時を持つことにより神様との対話をすること、聖霊が伝えようとすることを知る営みを学ぶことができました。御言葉から聴き、沈黙の中でひたすら神様に心を向ける、神様になんでも訊き答えを待つ、そして神様との親しさの中で「自分」を知っていくということが信仰生活において、また御言葉を語る上で、このような黙想を深めることの大切さを学べたことは幸いでした。
「レクティオ・ディビナ」(聖なる読書)とは3世紀以後、オリゲネスという古代の神学者が実践し、霊的読書としてその後修道院で実施されていましたが、16世紀に入ると廃れてしまったそうです。やがてカソリックの第2ヴァチカン公会議(1962-1965、この公会議では「教会と現代世界の間の懸け橋を築こう」という、社会奉仕活動、文化芸術などを通して多岐にわたった分野における対話と和解をめざし、現代社会との距離を縮める上で重要な役割を果たした会議と言われます。)の時に、この聖なる読書にも再び光が充てられたそうです。
講師の方はルター派の牧師ですが、彼は韓国で行われた黙想祈祷会に参加して、それまでになかった主への親しさを頂き、日本に帰ってきてご自身が実践されつつ、同様の修養会を教会で開催されているそうです。
私も早速実践しようと思ったのですが、この夏から委託されていたことが終了するまでは全く時間が取れず、たとえ時間があっても心の余裕を持つことができずに、時が過ぎて行きました。ようやく先日、学んだやり方に沿って静まって黙想の時間をとり、今回ヨブ記より、心に響いた御言葉は下記でした。
「あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。」 ヨブ記42章5-6節
この言葉を何度も読み、心にめぐらしていると「私は主を仰ぎ見ているだろうか。いただろうか。自分を退け、徹底的に悔い改めたことがあるだろうか。」と主から語られたのでした。もし、自分が真に主を仰ぎ見ていれば、高ぶっている自分を退け、悔い改めに導かれる。すると、おのずと古き私は速やかに去っていき、新しいものの見方が現れてくる、新しい自分が現れてくるはずだと思わされました。もっと主の前に悔い改めて、今自分が何をするように示されているか、どのように物事を捉えていくかを主から示されることを待ち、それを受け取って、その恵みを他者と分かち合っていくという営みができたらと願います。毎日出来ないかもしれませんが、短い時間でもこの黙想をしていきたい。そして、聴こえてくる「御言葉」の力を強く想わされ、感謝の心に満たされて、幸いです。
「天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。
雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。」 イザヤ書55章9-11節
(新共同訳聖書引用)