モーセがエジプトから逃亡して異国の地で生活してから40年の歳月が経ち、彼は羊飼いをしていました。ある時、羊の群れを神の山と呼ばれるホレブに連れて行ったとき、不思議なものを見ました。柴の木が燃えているのに、炎の中に柴が燃え尽きず残っているのです。「この不思議な光景を見届けてみよう」と近くまで行くと、神様がモーその柴の間からモーセに語り掛けられました。神様はエジプトで酷使されていたイスラエルの民の苦しみをつぶさに見て、その叫びを聞き、その痛みをご覧になったので、モーセに「行きなさい、私はあなたをエジプト王ファラオに遣わし、イスラエルの民をエジプトから救い出して、カナンの地へ導き上ると。」と言われました。神様がご自分を「わたしはあなたの先祖の神である」とモーセに現わされ、モーセが神様のお名前を聞くと「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)と言われました。また、「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。」と、イスラエルの長老たちに言いなさいとご自分の呼び名を紹介されました。
「わたしはある。」というのが神様の名前というのは文法的にも不思議な感じがしますが、この「ある」はヘブル語動詞(旧約聖書の原語)の未完了形で、これは過去形、現在形、未来形にも訳せるそうです。つまり、神様は永遠から永遠に初めから存在されている方であることを表しています。人間が木や金属で形を作って造られる、その土地、民族固有の神々ではなく、この世界をすべて無から創造された真の神である方が、まずご自分を一つの民族を起こして彼らにご自身を現わし、そしてその民族を通してすべての民族へ表そうと計画されました。そして後に救い主キリストを通してすべての民を救う「型」として、このエジプトからイスラエルの民を救出されるという出来事を起こされていることが、一貫した聖書のテーマとなっていると言えます。この時から約1500年後、神の子が救い主として、人間としてこの世に生まれた、イエス・キリストご自身がご自身のことを「わたしはある」である、とおっしゃっているからです(新約聖書 ヨハネによる福音書8章58節)。
モーセを出エジプトの指導者として任命された神様は、憐れみ深い神であり(「痛みを知った」7節)、「遣わす」神であり(10節)、「共にいる」神(12節)、「わたしはある」という、永遠に存在される神(14節)であるとそのご性質を知ることができ、私たちの想像を超える存在、畏れ多い神である一方、私たち人間一人一人に共にいて寄り添ってくださる、愛の神様です。モーセを呼ばれた神様は、現代に生きる私たちに対しても同じご性質であり、救い主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったこと、そして一人一人の人生に目的をもって神様と共に歩めるよう呼んでくださっていることを信じ、感謝したいと思います。 (新共同訳聖書引用)