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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 〇ヨハネによる福音書の「しるし」
  ヨハネによる福音書はイエスの7つの奇跡(ヨハネでは「しるし」)を記し、このカナの婚礼の出来事は最初のしるしです。興味深いのは、最後のしるしはラザロの復活で、彼の葬儀の後の出来事で、婚礼とは対照的です。ヨハネの福音書では、「イエスの時」(7:30 8:20)、「人の子が栄光を受ける時」 12:23 「この世から父のもとへ移る御自分の時」13:1 「父よ、時が来ました。」17;1など、「時」が記されています。カナという町は、イエス様が育った町ナザレより、約14.5㎞北に位置し、ここで婚礼が開かれ、イエスの母がそこにいて、イエスとその弟子たちも婚礼に招かれていたと記されています(2節)。ヨハネでは「マリア」ではなく、「母」と記されています。つまりイエス様の母は客として招かれてと書いていないので、おそらくこの婚宴を主催する側の親族で、婚宴が滞りなく行われることを気にかけ、手伝っていたので、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」(3節)と言った可能性があります。祝宴でホストがお客様をもてなす上で恥をかかないために、息子であるイエスに現状を話したのでしょう。
 
  またヨハネによる福音書では、イエスの母が登場するのはこのカナでのしるしと、十字架の側に彼女が立つ場面にてイエス様が弟子ヨハネに母を託したこと(19:25-27)の2か所だけです。「婦人よ」という母に対する呼びかけは、丁寧な言葉ですが、もはや肉親ではなく、距離を置いた関係を表す言葉です。イエス様はこの母との会話により、天の父から遣わされた神の子としてのご自身の立場を明確にし、「わたしの時」に従ってイエス様は行動を起こされることを表しています。   イエス様はこの最初のしるしを、単に祝宴のぶどう酒不足のためになされたのではなく、父なる神様の「時」にしたがって動かれる主イエス様(2:4)が栄光を受ける時、つまり十字架の死、復活、昇天の先取りとして、これから起こるもっと偉大なこと(1:50)を垣間見せるという、イエスの宣教の始まりとして示しています。このしるしや続くしるしも、十字架、復活、昇天、聖霊降臨という一連のイエス様が栄光を受ける「時」を指し示し、その時になって本当の意味が明らかになるようなしるしとして行われています。
 
 〇水をぶどう酒に変えたことが象徴すること
  イエス様は保管されていた6つの水がめに水を入れさせ、ぶどう酒に変えます。この水がめはユダヤ人の清めの儀式用でした。旧約聖書にてぶどう酒は喜びの象徴(士師記9:13)であり、アモス書9:13-14,エレミヤ書31:12では終わりの時の喜びがぶどう酒の豊かさで表されています。マタイ22:1-14,ルカ14:15-24にあるように神の国の到来は婚礼の食卓として祝われるというイメージでとらえられています。神とイスラエルの関係は婚姻関係(イスラエルは神の花嫁)として描かれます(イザヤ54:5)が、イスラエルはその契約を守れませんでした(エレミヤ31:32)。そしてその契約違反により、アッシリアやバビロニア帝国にイスラエル国、ユダ国は滅ぼされ、捕囚という民族的危機に直面しました。ユダヤ人は悔い改めましたが、その後神に義と認められるには、律法を守ることであるとし、律法主義へと発展していきました。清めの儀式のように、とにかく形だけでも守るという、本来の神とイスラエルの民との契約の意義から離れ、法律を守ることだけに形骸化していきました。
 
  水をぶどう酒に変えたしるしは、喜びのぶどう酒が空の状態のイスラエルがその水瓶を表面的な水の清めの儀式に使っていたのを、救い主イエス様が豊かな喜びのぶどう酒でその水瓶を満たすということを指し示しています。主イエス・キリストによる救いの業がイスラエルを回復させること、預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエルが国の回復を預言していたことが、イエス様において成就することを表しています。ユダヤ教を廃棄するのではなく、ユダヤ教とキリスト教が連続しつつ、後者が前者を超えて全く新しいものとして人々に与え、永遠の命を与えるというところへ展開していきます。この水をぶどう酒に変えるしるしは、イエスの十字架の贖いによって、ユダヤ教では到達できなかった神の国の祝宴の喜びが実現されることを指し示しています。
 
 〇異邦人のガリラヤから全世界のすべての民へ
  イエス様がガリラヤで宣教をなされたことは、イザヤ書8:23で、「異邦人のガリラヤは栄光を受ける」と預言されていたことの実現となります。ガリラヤという地域は、神殿があるユダヤのエルサレムから遠い場所です。「ナザレから何か良いものがでるであろうか」(1:46)とナタナエルがイエス様と出会う前に言ったように、ナザレを含むガリラヤ地域は異国との国境線添いの地域で、異教徒の影響を受けやすい地域でした。一方で、ガリラヤはエルサレムがあるユダヤの地よりも当時の世界的なヘレニズム文化が根付きやすく、国際的でした。イエス様の福音宣教はユダヤ人に向けたものでしたが、ガリラヤという土地は、異邦人(つまりユダヤ人以外のすべての民)を最初から視野に入れていた、イエス様が全ての人のための救い主であることという福音が発信された場所にふさわしいと言えるでしょう。  
  イエス様は、十字架で死なれ、復活されて弟子たちに現れ、昇天する前に弟子たちにこう命令されました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)これはすべてのキリスト信徒に対する、宣教の派遣の命令です。
 
 〇キリストの満ち溢れる豊かさによる恵みを受けて
  イエス様の救いの御業により、イエス様を信じた者はだれでも死から命へ、失望から希望へ、悲しみから喜びへと移されます。救われるための条件としとして律法を守り、儀式的なことを何かする必要はないのです。ただ、信仰により義とみなされる、罪あるわたしたちでもキリストの正しさが着せられて、正しいとみなしていただける、そして永遠の命が与えられ、神の子供としてキリストに結ばれ、その豊かな恵みに預かれることはなんと幸いでしょうか。

  その恵みとは、イエス・キリストご自身であります。神様は独り子であるイエス様を私たちに与えるほどに、私たちを愛してくださっているからです。神様は恵として、キリストを私たちに与えてくださったのは、独り子を信じるものが一人も滅びることなく、永遠の命を受けるためであると、ヨハネ福音書は神様の救いの御業を明確に記しています。(3:16)そして、永遠の命は、今、与えられてます。イエス様を神の子メシアであると信じれば、イエスの名により命を受けることができます。その永遠の命に生きる上で、天の父がイエス様を愛されたその愛で、イエス様の愛の中に私たちもとどまりなさい、繋がっていなさいとぶどうの木の譬え(15章)で言われています。

  イエス様につながって「互いに愛し合いなさい」と、イエス様は私たちに命じられます。自分一人では神の愛で愛せなくとも、イエス様に繋がって、結ばれて互いに愛し合えるように、愛をぶどうの木から枝に流してもらえばよいのです。さらに、イエス様が天に戻られても、信じる者に聖霊を送って下さり、その聖霊がすべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思いおこさせてくださるという、恵みに恵を与えて下さります。イエス様につながり、その愛を流していただき、他者へ流せるように、イエス様のその豊かさの中から、恵みをますます受けさせていただきましょう。神の国で祝宴に連なれる喜びを今、先取りしつつ、最終的に実現する神の国を待ち望んで日々、キリストを通しての神様の愛につながり、恵みを受けて、他者に流していきましょう。


  「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」
              (ヨハネ1:16)
                                        (新共同訳聖書 引用)