聖書の学び 〇レビ記20-22章 法を破った場合の諸規定:罰則の抑止力の限界と新しい契約 | ester-chanのブログ

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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 現代社会に生きる私たちは法治国家の中で生活しており、それによって不完全はあっても社会の秩序が守られていると言えます。なぜ不完全かといいますと、法によりそれを犯した者に対する罰則がある程度の抑止力にはなりますが、法を犯す人は常に存在し、つまり犯罪はなくならないし、次から次へと法にひっかからない抜け穴を見つけて新たな詐欺罪等が生じるからです。また、ねたみ、憎悪という感情が発展して相手の命を奪ってしまうという犯罪もなくなりません。人間の心が太古の時代から変わらないからです。国際法を定めても、守らない国々がいる限り他国を侵略するという戦争も後を絶ちません。

 そのような社会に生きている私たちが、聖書のレビ記に記される法律集を読むと、宗教的な相違感・時代的な違和感を覚えることもあります。レビ記20章では、19章までに記されていた神様がイスラエルの民にモーセを通して与えた律法を破った場合の、刑罰が記されています。それらは、ほとんどが死刑であり厳しすぎると思われるでしょう。もちろん、レビ記の法集は、当時の神様と契約をした民、イスラエルとの間の法律であって、その民に求められる「聖さ」、つまり自分たちを分け隔てるため、つまり他国の人々で偶像崇拝を行い、性的に乱れた慣習がなされる社会からの隔絶を求められることが前提の法集です。「あたなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりませあん。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。」(20・28)また、21章は祭司の一族に対する法で、祭司はその職務上一般の民よりも厳しいレベルの法が適用されるように記されています。

 これらをそのまま現代への適用を考えることは困難ですし、現代に生きるユダヤ人の人々でさえも、各国の社会の中に住んでいますから、その社会の法律に従いつつ、ユダヤ教の伝統と慣習を代々守ってきているようです。例えば、「自分の父母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。」(20・9)という法については、これをもし適用したら、現代の子供たちはほとんど死刑になってしまう程、親を敬わず反抗し、呪いのような言葉を親に向かって放ってしまう子供達もいるのではないでしょうか。しかし、本来は子供たちは親を尊敬すること、そして親は子供たちを神様から授けられた子供として大切に養育する義務があり、その基本的な親子関係が歪んでしまっていることにより、様々な家庭内の問題が起こっていることは、心が痛みます。

 人は罰則によって、法律を守ることを強制されるという面はあるでしょう。しかしそれだけで、自分本位の感情にふるまう行動や、もっと所有したいという欲を制御できるでしょうか。イスラエルの民も結局、これらの法を守れず、カナンの宗教の影響を多大に受け、主なる唯一の神を礼拝することができなくなった時代もありました。では、違反行為に対する罰や審判が国や民に及んで、それで終わりなのでしょうか。

 神様は後に、そのような律法違反をしてしまうイスラエルの民に「新しい契約」をお与えになりました。それは、レビ記に記されているような律法を守る、さもなければ罰、という契約ではなく、神様の律法を個々人の心に記すというものです。この「新しい契約」は、人がたとえ神様の律法を守れなくても、神様は「彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。…悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」(エレミヤ書31・31-34参照)という契約です。この新しい契約が実現するのは、今より約2千年前に神の御子イエス・キリストがこの世に送られ、イスラエルの民だけでなく、全ての人のための罪を負って下さり、それに対する罰(死罪)を十字架で受けてくださったことによります。そして、そのイエス様のこの救いを信じる者は、罪が赦され、新しい命と神の霊(聖霊)が心に与えられ、心に神様の掟が記されるので、聖霊の助けによりその心の内側から変えられて、罪を犯さないように徐々に変えられていくという、神様の恵みの契約です。これらの古い契約は、この新しい契約の恵みの光を通して、神様の人間に対する愛ゆえという、その存在の意味を理解されるでしょう。  (新共同訳聖書引用)