礼拝メッセージ タイトル「最高の道である愛」 | ester-chanのブログ

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 聖書箇所 コリントの信徒へ手紙 12章31節~13章・13節

 

〇霊的な賜物を豊かに与えられていたコリントの教会
  コリントの教会では霊的な賜物を豊かに与えられた人が多いようでした。パウロがコリントの信徒への手紙の冒頭で、「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。…賜物に何一つかけるところがなく」(1・5-7)と記しているからです。

  一方、コリントの教会には様々な問題もありました。教会内に分裂があったこと、また彼らは賜物に優劣をつけ、思いあがっていた人・劣等感を持つ人がいたこと等が、パウロの手紙から知ることが出来ます。そこでパウロは彼らにこの手紙で、教会は一つのキリストの体であり、各部分からなり、各部分が違う働きをし、互いに必要であることを説明し、よって神様から与えられている賜物も一人一人異なるが、優劣はなく、「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(12・7)と記しています(Ⅰコリ12・7-27)。霊的賜物というのは誰でも神様から与えられ(賜物:カリスマ ギリシャ語)、それは自分が誇るために与えられるのではなく、教会内で他者に仕えるために与えられるものだからです。そして、皆が同じ賜物をもたないのは、体が一つの部分ではなく多くの部分からなりたち、全体として部分部分の働きで機能するように、各々異なる賜物が働き合って、教会の互いに仕えるという仕組みであり、よって比較することに意味はないということ、それが教会、キリストの体、キリストを信じる信仰共同体だとパウロは説明しています。

〇最高の道である、神様の愛
  さらにパウロは、それらの賜物よりも皆に追い求めてほしいのは、最高の道である、神様の愛であることを、本日の箇所13章で記しています。霊的な賜物(異言や預言)があっても、またどんなに知識や信仰があっても、英雄的、犠牲的行いをしても、愛がなければ何の益もないと記し、そしてここでの愛は、神様の愛(アガペー、無償の愛)であり、原語のギリシャ語では「愛」といっても他に男女の愛、兄弟愛、親子愛と異なる愛という単語で表現されて、それらとは区別されています。そして「愛は忍耐強い」から始まります。

  忍耐とは、相手が何度も同じ過ちを繰り返しても、相手を見捨てないことでしょう。イエス様はペトロからの質問「主よ、兄弟が同じ過ちを犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。7回までですか。」(マタイ 18:21-22)に対して 7回どころか7を70倍赦しなさいと答えられました。この7という数字は完全数で、実際490回赦すと文字通りではなく、無限に赦すという意味にとられます。神の愛は簡単ではありません。無理だと思えてしまうようなレベルの高さです。

  ここで「愛」という言葉の代わりに、自分の名前を入れてリストを読み進めていくと、思わず「これは、不可能だ」と言いたくなるかもしれません。では「愛」という言葉の代わりに、イエス様の名前を当てはめてみます。イエス様は忍耐強い。イエス様は情け深い、ねたまない。イエス様は自慢せず、霊を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。イエス様は決して滅びない!まさにその通りなのです。神の御子であり、神である、神様の愛を顕わすイエス様ならあてはまります。なぜなら、これらは人の愛ではなく、神様の愛だからです。

 〇神の愛は恵みとして与えられる、心に注がれるもの
  神様の愛は与える愛です。神様はその独り子イエス様を与えるほどに世(わたしたち)を愛してくださいました(ヨハ3・16)。ガラテヤ人への手紙5章22節で、パウロは「御霊の実は愛である」と述べました。そして、愛アガペーとはどのようなものかを定義する言葉――喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった、愛の特質――を挙げられています。

  愛は神様から恵みとして与えられたものです。ちなみに恵みと賜物は同じ語源です(カリス、カリスマ:ギリシャ語)聖霊により人間の心に注がれる神ご自身の愛(ロマ5・5)です。また、愛である神様が聖霊として、わたしたちの内にとどまってくださり、神様の愛がわたしたちのうちに全うされると、ヨハネの手紙では記しています。(Ⅰヨハ4・13-16)

  神様が愛であり、私達は神の子供とされる霊を受け、新しい人としてこの世で生きる上で、神の愛を注いでもらうよう、日々求める必要があります。なぜなら自分ではこの愛は作り出せないし、長く持たないからです。教会内での互いに愛し合い、また教会の外の人とも神の愛で接する。愛と平和はつながっている。キリストが愛と平和の源だから。それに結ばれているキリスト者は、神の愛を頂いて、他者へ仕える。
 
 〇今は部分的理解、やがて、完全な理解
 一方、8節後半にあるように他のことは一時的で、霊的な賜物でも、今ある知識も消え去るでしょうとあります。なぜなら、私たちはせいぜい部分的にしか知らないからです。しかし、完全なもの(再臨されるイエス・キリスト)が到来したとき、それら部分的にしか知りいなものは取り去られるのです。霊的なことに関しては、まるで子供のような理解だとパウロは例えています。子供の時に自分の周りをどう理解していたかは、大人になってなかなか思い出せないでしょう。背丈が低かったので、すべてが大きいものと、また遠い距離のように思えたことは思い出せますが。このように子供にとって視野が狭いため、すべてがまだ部分的にしか理解できなかったのです。ですから、私が子供だった頃は、子供のように話し、子供のように理解し、子供のように考えていました。しかし、主が来られるとき、私たちは完全に、理解することになるでしょうとパウロはいっています。しかし地上にいる間、それまでは不完全なままです。

 ペテロはイエス様について、「あなたがたは、この方を見たことはないが、愛している」(ペテロの手紙一 1章8節)と語りました。わたしたちは今はまだイエス様をこの目で見てはいませんが、つまり、御言葉による部分的理解しかないですが、日々、神が私たちに与えてくださった助け主、聖霊を通してのイエス様との交わりを通して、生活のなかで信仰によってイエス様を愛しているのです。しかし完全なものが来たときには、これらの部分的理解は消え去ります。聖霊によって、この地上の旅路をこれらの知識、霊的な賜物を通して歩むことができます。これらのものは、私たちが旅の終わりにたどり着いたときには、もうそれらを必要としなくなります。なぜなら私たちは主と顔と顔を合わせて会うのです!

  パウロは12節で鏡の比喩を用いています。古代コリントの街は鏡製造の中心地として知られていたそうです。古代の鏡は青銅などを磨いたもので、今の鏡のように鮮明でなくぼやけているので、完全には映らないものでした。しかし、その時には、はっきり見えるように、つまりはっきり知られているようにはっきり知ることになるとパウロは述べます。神様は私たちを完全にご存じであります、私たち以上に私たちを知っています。私たちも天上で、新しい復活の体が与えられた時には、そのように知ることができるでしょう。

 〇永遠に続く三つのものが信仰、希望、愛
  そして、永遠に続く三つのものが信仰、希望、愛であるとパウロは記す。信仰がなければ、神を喜ばせることはできません。神の言葉への信仰、神の約束への信仰、イエス・キリストによる救いの約束への信仰、それらは残るものです。私たちの心にある希望、天の御国への希望、主と共に過ごす永遠の命への希望、それらも残ります。イエス・キリストを通して私たちの心に注がれた神の愛も永遠のものです。信仰、希望、愛。これらの中で最も大いなるものは愛です。そして続く14章で、「愛を追い求めなさい」と語られています。この最も大いなる神様からの賜物、最高の道、愛を。

  私たちは、イエス様とぶどうの枝が木につながるようにつながることで(ヨハ15・5)、神様の愛を自分の心に注いで頂き(ロマ5・5)、その愛に自身がとどまり、他者へその愛を示していきましょう。また、私達は神の子供とされる霊を受け、新しい人としてこの世で生きることができる、とパウロはローマの8章で記しているように、その新しい人の性質は神様の愛であり、それは自動的にあるものではなく、常に愛を求める必要があります。私たちはイエス・キリストの十字架の贖いで救われていますが、この体はまだ贖われていないので、不完全ですし、自分ではこの愛は作り出せないし、神から注いで頂かなければなりません。

  神の愛こそが、教会内の分裂や争いを防ぎ、教会の外にむかっての奉仕や対人関係における態度において神様の愛を顕わせます。私たちはキリストの十字架により贖われた者として、救いを受け、神の子供とされていること、その大きな恵みに対する感謝、応答として、神の御心にかなうことをこの世の生活で神様の愛を追い求めて行きましょう。それを導くのは私たちの内側に住まわれる聖霊であり、これらの愛が自分の内になくとも、注がれるよう祈り求めましょう。そして希望は、いつか天で神様のことをはっきりと見られる復活の体が与えられ、今は隠されていて、理解できない神様のこと、天上のことをいつか知ることができることを待ち望みましょう。

(新共同訳聖書引用)