エフェソの信徒への手紙のテーマの一つは、教会の一致です。なぜなら、教会はイエス・キリストを頭とするキリストの体であると(1:10)記され、教会の中でキリストにある平和を保つことが重要だからです。私たちキリスト者は地理的、時間的、民族的な枠を超えた大きな「一つの教会」(公同教会)に属しており、その意味でキリストの体として愛によって成長していくことが記されています(4・15-16)。本日の箇所はその文脈で、キリストにある新しい生き方が述べられています。
キリストにある新しい生き方とは言い換えれば、神に愛されている神の子供として、神に倣う生き方です(エフェソ5・1)。「神に倣う」とは、「キリストに倣う」ことです。なぜなら、御子であるキリストが人となられて神様を表された(ヨハネ1・13)、キリストは人間としてこの世に生き、私達の生き方の模範を示して下さったからです。この手紙では「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエス様の内にある通りに学んだはずですから」(21節)、古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされるよう勧めています(23節)。
25節から32節まで具体的な新しい生き方が記されています。隣人対して誠実に対応すること、怒ることがあってもそれを翌日まで引きずらないこと、盗んではならないこと、逆に、困っている人に分け与えましょうと勧めています。29節「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みがあたえられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」とあります。マタイ15:18-20でイエス様は「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。」と言われています。心でそう思ってしまっても、外に出さなければ相手に影響を及ぼさず、自分の心の中で悔い改めてすむことになります。悪い言葉の代りに、相手を建て上げる、作り上げるのに役立つ言葉を必要に応じて語ることを勧めています。これは簡単なことではないです。まず気を付けることは、自分の思いに任せて話すのではなく、相手との会話での沈黙を恐れず、相手が話すのをまず聞くという傾聴の姿勢を保つことが実践的な知恵です。そして頭でどの言葉を用いて相手に話すかを考える癖をつけることも一つの工夫かもしれません。その人を造り上げるのに役立つ言葉とは、やはり、御言葉ではどういっていたかしらと、頭の中で考え、思いつかない時、わからないときは「わからない」と正直にいったほうがいいと思います。そういう場合は、「わからないけれども、神様が導いて下さるよう、共に祈りましょう」といって、祈ることが良いでしょう。そうすればその方を聖霊が導いて下さります。
30節「神の聖霊を悲しませてはなりません」とあるように、聖霊は人格を持つ方なので喜怒哀楽を持たれます。ここで「贖いの日」とあるのは、現在は私たちの魂は贖われてすくわれていますが、この肉の体はまだ贖われていません。それはイエス様が再臨なされる時におこるとパウロは1テサロニケ4章や1コリント15・52で説明していますように、私たち信徒が体が贖われる日、つまり復活の体が与えられ、天で永遠に主と共に住む終末的な救いの完成の日のことです。その日まで、聖霊が、私たちの贖いが完成されることを保証してくれているという意味です。
そして、わたしたちの現在の体は、自分一人の者ではなく、互いにキリストの体の一部です。聖霊が住む神殿です。そのような認識を持てば、他者に対しても、自分のことによう思えば、互いに親切にし、憐れみの心で接し、赦し合えるでしょう(32節)。ルカによる福音書6・36でイエス様は「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい」とあり、父なる神様の憐れみ深さを自身も持ちなさいと、イエス様は言われています。
イエス様が復活されたことは、私たちが古い自分に死に、この世で新しく生きるために、また将来復活の体が与えられることを保証するために、復活してくださったのです。ですから、救われた後、この復活の力で、新しく内側が変えられていくという希望によって、私たちは新しい人としての生き方を目指すということ、それは神様の恵みに対する、愛に対する感謝の応答であります。自分が救われたことが、大きなことだと思えれば思えるほど、神様への感謝、ありがたさもまし、各々の応答にも表れます。多く赦された者は多く愛すると、イエス様は言われました様に、自分が多く赦されたと自覚し、そのためのイエス様の十字架の贖いがあったことを感謝するでしょう。そして、この応答は個人のことだけではないのです。個々人のキリスト者はキリストの共同体、教会の一部であることを考えると、一個人の不信仰が内部の分裂、争いを引き起こし、教会が一つになれません。だから、互いに赦し合いなさいと勧めているのでしょう。自分もキリストにあって神が赦して下さったということを思い出して、お互い憐れみ心で、寛容な心で接することが必要です。
最後に本日の召詔を読みます 「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書6・8)
神様は私たちの父であり、主なる神様がその子供である私たちに願うことは神様と共に歩むことです。共に歩むには歩調を神様に合わないと、共に歩めません。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって」とは、自分の中だけで行おうことではなく、他者との関係において表される者です。イエス様が律法で大切な戒めを、神を愛すること、隣人を愛することと総括しましたが、この二つは切り離せない重要な戒めであり、このことを神さまは私たちに、主と共に歩むことの具体的なこととして表しています。私たちは欠けの多い者、失敗をする者であって、日常生活において、御言葉に書かれている新しい人を着る生き方はすぐには身につかないことでがっかりするかもしれません。私たちの自分の力、性格の良さでこれらのことをしようとするとすぐに壁に突き当ります。聖霊が助けてくださり、導いてくださる信じて、新しい生き方を日々求めていきましょう。私たちがどうであれ、私たちへの神様の愛は変わりません。その愛に応答するかたちで、失敗しても神様の前に悔い改め、仕切り直して、また神様の愛のご性質を少しでも心に注いで頂き、(愛は造りだすものではなく、神から注がれるものです)他者に対して、信仰の家族に対し仕えていこうと、歩んでいきましょう。 (新共同訳聖書引用)