小さい子供を持つ親にとって、子供を偉い先生に祝福して頂き、そのことで子供の将来について安心を得るというような思いは、現代でもあるかもしれません。2000年前のイスラエルで、イエス様が宣教活動をなされていた時、彼の弟子たちは、親たちがイエス様のところに子供たちを先生に祝福していただこうと、ちかづいてきたのを「来てはならない」と妨げようとしました。それがイエス様の活動の邪魔をしないために正しいことだと思ってしたのですが、逆にイエス様は弟子たちを怒られました。なぜなら、イエス様は常にすべての人に心を開き、受け止めようとなさる方であり、子供たちをも、いや子供だからこそ喜んで祝福したいと思っておられたのでしょう。子供たちを一人一人抱き上げて祝福されました。イエス様の幼子に対する優しい笑顔と、子どもたちと母親たちの喜びが目に浮かびます。
イエス様は「神の国はこのような者たちのものである」(ルカ10章14節)と言われました。この意味は、天の父なる神様との関係について言われているのでしょう。私たちのキリストを信じる信仰とは、神様への全面的な信頼であり、神様は約束を果たす方、だから委ねて従おうとする態度を私たちが持つことが出来る、つまり人の資質や能力ではなく、神様の一方的な恵みによってそのような親子関係が与えられている者が「子どものような」者ではないでしょうか。子供は大人ではないので、自立していませんし、誰かに頼って生きるしかない弱い存在です。もう大人ですから、神に頼る必要はないです、自分のことは自分でと思っている限り、なかなかイエス様に近付こうとはしないでしょう。
この子供の祝福の記事の後に、金持ちの青年が「永遠に命を受継ぐには何をしたらいいですか?」と、イエス様に質問する話が置かれています。イエス様との対話の後、彼は自分の財産が一番であり、それを捨ててまでイエス様に従うことが出来ませんでした。そしてイエス様は財産の有る者が神の国へ入るのは難しいことを弟子たちに言われました。財産を持つことが問題ではなく、お金がその人の「神」、偶像化してしまう危険性があるからです。「子供のように神の国を受け入れる人(は)…そこに入る」は(10章15節)と「永遠に命を受継ぐ」(10章17節)とは同義であり、イエス様は現代に生きる私たちへ、この青年の話の通りに無一文になって神に従えとは言っておられず、ただ、イエス様の十字架に示される神様の救いの恵みを受けとり、お金を頼りにするのではなく、神様だけを信じて委ねる、そのような信仰を持つ神の子供へと招いておられのでしょう。
「『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」 マルコによる福音書10背負う14-16節
(引用 新共同訳聖書)