聖書の学び  創世記44-45章 ヨセフと兄弟たちとの和解 | ester-chanのブログ

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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 ヨセフの兄たちは、約束したとおりに末の弟ベニヤミンを2回目の食糧の買い付けの際に連れてきて、ヨセフと共に食事をし、カナンの地へ戻ろうと旅立ちます。ここでヨセフは兄たちが、父ヤコブとベニヤミンを大切にしているかどうかを確かめるために、もう一芝居を打ったのです。彼らの持ち帰る袋に彼らが持参した銀と、ベニヤミンの袋にはヨセフの銀の杯を入れるように執事に命じ、その後すぐに、彼らを追いかけさせ、銀の杯を盗んだものを奴隷にすると言わせました。兄たちはいわれのない嫌疑をかけられ、銀の杯が自分たちの袋にあるはずがないと、もしあったらその者は死罪だし、自分たちもみな奴隷になりますと主張した。ところが、ひとりずつかれらの袋を調べていくと、末の弟ベニヤミンの袋から銀の杯が見つかります。彼らは「なんということだ!」と自分たちの衣を引き裂いて、そのショックを表し、エジプトの町へ引き返します。

 「神が僕どもの罪を暴かれたのです」(44:16)と、身に覚えのない物的証拠をつきつけられ身の潔白を証明しようにすべがなく、我々は連帯責任をとってみなでヨセフの奴隷になる、と兄たちの中でリーダーシップをとっているユダがヨセフに言います。それに対してヨセフは、「杯を見つけられたものだけが、私の奴隷となれ、他の者は父のもとへ帰れ」と言い放ちます。ここでもし、兄たちがその通りにしたならば、結局ベニヤミンを犠牲にして、父の息子を失う悲しみをも考慮せず、自分たちは父のもとへ帰ることになります。以前ヨセフを奴隷に売ろうとしたように、ベニヤミンも奴隷として引き渡すことになります。

 すると、ユダがヨセフに嘆願します。末の弟が帰らなければ父に襲い掛かる苦悶を見るに忍びないと「なにとぞ、この僕を奴隷にし、ベニヤミンと他の兄弟たちを父ヤコブのもとへ返してください」と。ヨセフはこんな兄たちを苦しめる芝居をしたくなかったでしょう。しかし、兄たちとの真の和解をするために、どうしてもこのような方法で確かめなければならなかった。そしてとうとう、ユダによって、自分を犠牲にしてまで末の弟を守ろうとする、父ヤコブの悲しみをこれ以上積み上げないようにと必死の歎願をする、家族を思いやる人に変わっていると分かり、ヨセフは平静を装うことができなくなり、大きな声をあげて泣いたと記されていることからもわかります。(45:1-2)

 こうして「わたしはヨセフです」と身を明かし、それだけでなく兄たちに「命を救うために、神がわたしをあなたがたより先にお遣わしになったのです。」(45:5)といいます。確かに兄たちはヨセフを奴隷に売るという悪を行ったけれども、神がそれを生きながらえさせ、大いなる救いに至らせるため、ヨセフをエジプトに遣わしたのだと、神の御業を強調しています。そして父ヤコブと家族をエジプトに連れてくるように兄たちに言います。もちろん、すぐに兄たちは父の許に帰り、「ヨセフが生きていて、エジプト全国を収める者になっています」と報告すると、父ヤコブは死んだと思っていた息子が生存していたことを聞き、どんなに嬉しかったことでしょうか。「よかった。…死ぬ前に、どうしても会いたい。」(45:28)といいます。老齢130歳にもなるヤコブが、こどものように素直に、大いに喜びを表していることが、目に浮かびます。

 ヨセフ物語は私たちの人生において、後から「ああ、こういうことにつながるんだ、そういう意味だったのか」と神様の不思議な導き、神の摂理があることを記しています。私たちの人生において起こる善いことも悪いことも、それらが偶然とか、運命という何か説明のしようもない力に縛られて私たちが生きているのではなく、神様が私たちの気が付かない背後で、全てが益になるように働いて下さることを、信仰によって理解できれば幸いです。

 

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 」ローマの信徒への手紙 8:28 (新共同訳聖書引用)