礼拝メッセージ 「生き生きとした希望」  | ester-chanのブログ

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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

聖書箇所 ペトロ1 1:3-9

 

〇仮住まいをしている選ばれた人たちへ
  ペトロの手紙1は、イエス様の12弟子の一人使徒ペトロが、口頭で伝えた内容をシルワノ(シラス)によって紀元90年頃記されたと言われます。1章1-2節よりペトロの手紙1の概要を述べますと、この手紙の宛先の地名は小アジア(現トルコ)の南側を除いた部分に点在していた教会があった場所とされ、おそらくこの手紙を持たされた使いがこの順序で各教会を訪ねたのではないかとされます。
 
  1節の「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」とありますが、これは離散して住んでいるユダヤ人(ディアスポラ)のことだけでなく、その地域の非ユダヤ人の住民で福音を信じてキリスト者になった人達も含むとされます。この「仮住まい」は「寄留している」との意味であり、ペトロの手紙で何度かでてきます。信仰を持ち、洗礼を受けて新しい人生を歩むキリスト者にとって、たとえその土地から移動していなくとも、実質的に故郷から離れている存在だという意味を含めて、ペトロは「離散して仮住まいしている人たち」とって言っているでしょう。なぜなら、キリスト者はこの世にいても、この世のものではなく、神の国の国民、神のものとされているからです。
  
  寄留者は、外国で仕事し・生活することの厳しさを体験します。現代の日本社会において、寄留者の方々が増え、技能研修生や、出稼ぎのために日本に仕事する人等、在日外国人の方々が増加しています。益子教会にも、ホームページを見て、ベトナムから介護施設等で働きに来ている女性たちが礼拝に参加されたことがあります。そのような方々にどのように、教会に招き、何か外国生活での相談にのったり、支援できることがあれば手伝えないかという思いも与えられています。なぜなら、わたし自身がアメリカで留学生だった時、卒業後NYの日系企業で働いていた時、外国での仕事・生活の厳しさ、不便さを味わいました。外国人で家族のいない私を支えてくれたのは各地の教会の皆さんでした。日本人教会はもとより、アメリカ人の教会の方々は、収穫感謝祭、クリスマスなど家族で集まる時、外国人で英語のコミュニケーションがままならない私を食事に招いてくれました。日本に帰国して、今度は私が日本に在住する外国人で教会に来る人々に仕える機会が与えられたいと願っています。
 
 ペトロ自身が仮住まいをしている選ばれた者だと自覚し、故郷ガリラヤを離れ、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるためにエルサレムだけでなく、各地へ彼の妻とともに伝道旅行をしていたことが、パウロの手紙にも記されています。ペトロを含め当時のイエス様の使徒たちは、主に遣わされた使者として世界中を訪ね歩いて福音を宣べ伝えていたことが使徒言行録に記されています。ペトロはガリラヤ弁しか話せなかったので通訳が必要だったはずで、おそらくこの手紙を記したシラスも通訳としての同行者の一人だった可能性があります。

 私たちも今住んでいる地域にとどまりつつも、本籍は天国にあり、この世ではこの世に生きる人々に神様の愛で仕えながら、寄留者として地上の旅を続ける、天国に向かっての旅人であると言えます。ヘブライ人の手紙11章13-16節でも、
  「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束された者を手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。…天の故郷を熱望していたのです。」と記さています。

 ペトロの手紙のキーワードの一つは、私たちは神様の憐みと恵によって「選ばれた人」であるということです。2節「父である神があらかじめ建てられたご計画に基づいて」、私たちは神様によって選ばれているとペトロは記しています。つまり私たちが母の胎の中にいる時から、神様のほうが私たちを先に知っていて下さる、私たちが神様を知る前にすでに私たちは、神様のご計画に基づいて救いに導かれると神様のほうでご存じであるということです。このことは、エペソ1:4-5で
   「天地創造の前に神は私たちを愛して、ご自分の前に聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」
  
  とパウロが記しているとおりです。私たちが、人生のどの時点で神様を信じるか、神様の恵みに応答するかをすでに神様はご存じであるということ、それは神様の側からみると「選んだ」という表現になります。人間側では、福音を聞いて信じたことになります。私たちが何か立派な行いをしたから選ばれたわけでなく、神様の主権つまり、神様がそうしたいからなさるということ、神様の御心で救いの業を成し遂げられるので、誰が救われるかと人間側で勝手に判断できません。人間がなすべきことは、信じたら信仰告白し、新しく生きることを聖霊の力に導かれて求めること、そして救われていない人のために執り成しの祈りをし、福音を伝えていくことです。
 
 〇生き生きとした希望
  本日の箇所3節ではまず「主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と神様への賛美から始まります。ペトロはキリスト者が神様を賛美する理由を続けて記しています。それは、神様がイエス・キリストを死者の中から甦らせてくださって、豊かな憐みにより私たちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与えて下さったからです。それが賛美の理由です。この神様の憐みと恵に感謝しつつ心を込めて賛美を神様にささげることの大切さを思わされます。
  
 「新たに生まれさせ」とありますが、これは信じて洗礼を受けた者が新しく造られるということで、新しい人類の創世記ともいえます。ペトロの手紙は洗礼を受けたばかりの人向けに書かれたのではといわれるほど、イエス・キリストのよみがえりにより、またそれを信じる私たちの信仰により、私たちは新たに生まれさせられたこと明確に記しています。使徒パウロもローマの信徒への手紙6:4にて新しい命に生きることを記しています。
 この新しい命に生きるために、私たちには「生き生きとして希望」が与えられています。この希望は、単なる希望ではなく、神様の約束に基づいた信仰による希望であるから、生きた希望なのです。

  その希望は、天の相続財産に預かる者であることがまず一つです。これは、「朽ちず、汚れず、しぼむことにない」とあるように、この相続財産はなくなることのない、また悪にかかわらない、時間の制限がない、天にて管理される確実な資産、つまり天国で与えられる祝福・恵のことを、「資産」と表現されているといえます。そして、6節に「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。」とありますが、私たちは終わりの時に救いが完成されることを待ち望みます。それまで、私たちはこの地上の歩みを、神様の力により、信仰によって守られていると知っているので、喜ぶことができます。
 
   私たちは、キリストを見たことがないのに、愛し、今も信じているのはなぜでしょうか。それはキリストの十字架の救いを受けて、新しい命を持ってこの世での生活を歩める、魂の救いを受けているからです。私たちは今、目に見えてなくとも、キリストが共にいてくださり、また天で私たちのために執り成しをしてくださる大祭司であることを信じる信仰が与えられているのは幸いです。

 〇試練で精錬される信仰
 「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」、と続くのは、試練は必ず来て、悩まされることが現実としてあるとしつつ、そのような状況においても喜ぶことができるのはなぜでしょうか。  
 
 ペトロの手紙1が書かれた時代、信仰ゆえの迫害があり、社会的に差別されるもしくは奴隷の境遇にあって、不当に扱われ、試練に悩み、痛みを味わう兄弟姉妹が多かったと言われます。その兄弟姉妹にあてて、どんな状況にも関わらず、神様にすべてゆだね、耐え忍び、今の状況でも満足し神様に感謝を捧げられることが幸いであると励まし、現代の私たちにこの言葉は語られています。イエス様は
 「わたしのゆえに人々があなたたちを迫害し、あらゆる悪口を偽って言うとき、あなたたちは幸いである。喜びなさい。喜びにあふれなさい。恵みは天においてあなたたちの報いであるから。」(マタイ5:11-12) 
 
 と言われました。イエス様は迫害されたら幸いだ、喜びなさいとおっしゃっています。その恵は、天において与えられる報いだと。これを基にペトロは「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」と教えていて、だから、試練・迫害に耐える時にこそ、イエス様が約束された天での報いを待ち望んで、喜ぶよう、ペトロは励ましていると思います。
 
  私たちは、今信仰のゆえの迫害にあう時代に生きていません。しかし、つい80年前迄は、日本では天皇を神として拝めと強要され、それに屈しなかったクリスチャンたちは牢獄に入れられ、獄中で死なれた方々がいました。いつ、再び迫害の時代が将来来るかはわかりません。しかし、その時になったら、神様に守られて、恐れは取り去られて迫害に対応できると信じます。

  キリスト者は、常に終わりの時、終末を意識して、この世の生活を送る者といえます。私は若い時、「終わりの時なんか、まだまだ来ないだろう」と、自分が生きている間は関係ないようなこととして捉えておりました。実際、ペトロの時代もそういう人たちがいたので、ペトロは神様にとって1日は千年、千年は一日のようで、主の日は盗人のようにやって来る、つまり突然くるといっています(ペトロ2 3:8-10)。ですから、終末がいつ来てもよいという心構えを信仰によって持ち続けたいと願います。
 
  私たちはこの地上では旅人ですが、その地を楽しむために来ている観光客ではありません。この世の市民ではないですが、神の民として神様の力により守られながら、この世の中に寄留者として生活する者、勇敢にこの世を生きる者であることをペトロは教えています。私たちは新しい生き方へと召されて、選ばれていますが、生活の中で、試練に遭うことはあります。それは金が火で精錬されるよう信仰が強められる機会であり、その試練の中で生き抜くには、神様の約束とそれにもとづく生き生きとした希望が与えられています。終末に完成される救いという生き生きとした希望に励まされつつ、互いに心を一つにして、兄弟姉妹を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさいとペトロは勧めています。神様の恵みと平安を豊かに、たくさんいただき、互いに励まし合い、神様のご計画,御心がなるように、祈り求めていきましょう。
                                        (新共同訳聖書 引用)