実は今、ネット上で他人同士のケンカを眺めていたりします。
誰とは言いませんが、一部で結構な騒ぎになっているのでご存じな方もいるかもしれません。
もし誰のことを言っているのか理解された方がいたとしても、これは関わる気のまったくない無関係な第三者のひとりごとですので、そっとしておいて下さい。
今回この喧嘩を知ることになった経緯は、一人が単純にずっと昔から見ている人なので、腐れ縁的にズルズルとそれを続けてきた、その流れだったりします。
その人に対しては並々ならぬ思い入れ(でもマイナス感情の)は持っていますが、ただ、個人的には、どちらの味方でもありません。
だから、眺めてるだけ。
顔も知らない大人同士の喧嘩を、よく内容を知らない第三者が仲裁しようというのも傲慢な話だと思いますしね。
個人的には、まわりがどう思おうと、本人たちが納得いくまでぶつかり合えばいいことだと思うのです。
喧嘩って本来そういうものですし。
それをせずに逃げ回るから、ただの一時的な怒りがいつか根の深い憎悪に変わるんです。
大っぴらにやらかせば、それはもちろん人目を引きますし。あれこれ言う輩も出てくると思います。
が、その当事者間の衝突が、どんなに醜かろうが、みっともなかろうが、そんなの見て面白がってる人たちの戯れ言でしょうし、そもそも外野がとやかく言って止まる程度の諍いならば、どちらにしても大した主張ではないのでしょう。
だから、気のすむまでやればいい。
相手はそれを承知で公開でしたんだろうし、そうまで堂々と喧嘩を売られたことに対して堂々と言葉を返せないなら、そっちの方に問題があるだろう、とは思いますが。
…しかし、きっかけはほんの小さなことだったのに、そんな馬鹿みたいな小さなことが異常な大きさに膨れ上がってしまうのは、ネット上だからこそ起こるんであって。
最初の発端、その辺に撒き散らされてる屑みたいなトラブルの破片をうまく避けて歩いていけるスキル、もしくは火種に向かってわざわざライターつけてまわるような言動をしないだけの分別、そのどちらかだけでも身に備わっていれば、事はそれほど大きくなりません。
すべからく、人は間違いを犯すものです。
どんな聖人でも、どんな偉業を成した人でも。
数えきれない人の波に揉まれて生きる普通の一般人ならなおさらのこと。
人としての真価を問われるのは、間違いを犯すことではなく、そのあとのこと。
自分のしたことをきちんと認識して、もし自分の行いで迷惑を掛けた人がいるならその人に誠意をもって謝罪し、同じ過ちを繰り返さないことを気を付けながら生きていく。
人を傷つけた代償に痛みを受け、そういう謙虚さを身につけていく。
いい年こいて、そういう人間として大切な部分を自分できちんと育ててこれなかったのは、その人自身の落ち度ですよね。
確かに、人は生まれた環境を選べません。
それによって培ったものがあまりにも他人と違いすぎれば、その軋轢に苦しまされることもあるでしょう。
でも、それは、少なからず誰にでもあることです。
もちろん、わたしにも。
わたしの場合は、時に、その事実は面白半分に他人によって吹聴されたり、それを知った誰かに迷惑をかけたわけでもないのに言われなき罵倒を受けたこともありました。
…でも、わたしは、それを悲しく思いこそすれ、恨んだことはありません。
誰も。何も。
そうした経験を経て、わたしは彼らとは違う感じ方をして、違う道を選ぼうと思った。
それだけのことです。
でも、そうして一生懸命生きてきたけど、その中で、知らないうちに誰かにひどいことを言ったり、傷つけるようなことをしたこともたくさんあるんだと思います。
何気なく言った一言が、実はすごく無神経な言葉だったことに後から気が付いて、あんなこと言わなきゃ良かったと自己嫌悪して落ち込むこともたくさんあります。
けれども、それを謝ることも出来ないことの方が多いんです。
人は、傷ついたことをいちいち他人に伝えはしない。
傷つけられたら、ただ、黙って遠ざかっていってしまうから。
かつての自分が、そうしたように。
他人は、自分を映す鏡。
誰かにした行いは、結局めぐりめぐっていつか自分のもとに反るのです。
それを、今のわたしは知っています。
人は、生まれ育つ環境を選ぶことは出来ません。
通ってきた道を変えることも、また、できません。
でも、これからどのように生きていくのかは、自分で選ぶことができます。
痛みを人に与えることも、誰かから傷つけられることも、当たり前に存在するからこそ、それをきちんと受けとめて生きていかなくては。
それが、自分が振りまいてきた痛々しい過去へと返せる、唯一の礼儀なのではないでしょうか?
だから、どこにいるかわからない敵に向かってダイナマイト投げまくってるようなことしてれば、そりゃあいつか当たり前に制裁される日が来るんですよ。
いい加減そろそろ、そういうことを学んでください。
ぶん投げたダイナマイトが、自分の足元に落ちて大爆発する前に。
ご本人のご立派なお言葉をお借りすれば、「鏡を見るのは勇気のいること」…なんですよね?
その勇気とは、一体何のための勇気なんですか?
ご自分の本質を認めずに自分の表面だけを飾り付けて、その醜さを隠すための勇気ですか?
その醜い本質を認め、それでも少しでも良くしようと努力するための勇気ですか?
きれいなお言葉を羅列する才能は認めますが、あまりにもそれが底の浅い上澄みをさらっているだけに見えますので。
少なくとも、表面上は沈黙を保ちながら、裏では絵に描いたようなきれいごとを並べて「私を信じて」と繰り返すだけの人間と。
多少そのやり方や言葉に問題があったとしても、自分が何がしたいか、何を知りたいか、まっすぐ本音をきちんとぶちまけてくれる人間と。
どちらを信用するかと言えば、答えは見えています。
鏡にうつるものが、自分が見ていたい自分自身の姿でしかないこと、それこそが傲慢なのです。
鏡にうつる自分の姿が清らかだと信じているからこそ、「私を信じて」なんて言葉が出てくるんですよね。
それを信じる方もどうかしてると思うけど。
もちろん、感銘を受けた言葉、心を軽くしてくれる言葉、感動を与える言葉、人として口に出した、作家として表現した言葉の中に、そのように人の心を動かした言葉があるということは、とても素晴らしいことだと思います。
が、だからといってその人間のすべての言葉が素晴らしいかというのは、また話が別でしょう。
耳障りのよい言葉を並べて人を良い気持ちにさせることより、敢えて苦言を呈して大切なことに気付かせることの方がよっぽど価値がある。
だから、わたしは、大嫌いなんです。
普通の人にはない才能を持っている人が、自分の保身のために、他者を丸め込むために、その才能を使うのを見るのも。
そういう人間が「私を信じて」といとも簡単に口にするのも、です。
本当に、品がない。
誰とは言いませんが、一部で結構な騒ぎになっているのでご存じな方もいるかもしれません。
もし誰のことを言っているのか理解された方がいたとしても、これは関わる気のまったくない無関係な第三者のひとりごとですので、そっとしておいて下さい。
今回この喧嘩を知ることになった経緯は、一人が単純にずっと昔から見ている人なので、腐れ縁的にズルズルとそれを続けてきた、その流れだったりします。
その人に対しては並々ならぬ思い入れ(でもマイナス感情の)は持っていますが、ただ、個人的には、どちらの味方でもありません。
だから、眺めてるだけ。
顔も知らない大人同士の喧嘩を、よく内容を知らない第三者が仲裁しようというのも傲慢な話だと思いますしね。
個人的には、まわりがどう思おうと、本人たちが納得いくまでぶつかり合えばいいことだと思うのです。
喧嘩って本来そういうものですし。
それをせずに逃げ回るから、ただの一時的な怒りがいつか根の深い憎悪に変わるんです。
大っぴらにやらかせば、それはもちろん人目を引きますし。あれこれ言う輩も出てくると思います。
が、その当事者間の衝突が、どんなに醜かろうが、みっともなかろうが、そんなの見て面白がってる人たちの戯れ言でしょうし、そもそも外野がとやかく言って止まる程度の諍いならば、どちらにしても大した主張ではないのでしょう。
だから、気のすむまでやればいい。
相手はそれを承知で公開でしたんだろうし、そうまで堂々と喧嘩を売られたことに対して堂々と言葉を返せないなら、そっちの方に問題があるだろう、とは思いますが。
…しかし、きっかけはほんの小さなことだったのに、そんな馬鹿みたいな小さなことが異常な大きさに膨れ上がってしまうのは、ネット上だからこそ起こるんであって。
最初の発端、その辺に撒き散らされてる屑みたいなトラブルの破片をうまく避けて歩いていけるスキル、もしくは火種に向かってわざわざライターつけてまわるような言動をしないだけの分別、そのどちらかだけでも身に備わっていれば、事はそれほど大きくなりません。
すべからく、人は間違いを犯すものです。
どんな聖人でも、どんな偉業を成した人でも。
数えきれない人の波に揉まれて生きる普通の一般人ならなおさらのこと。
人としての真価を問われるのは、間違いを犯すことではなく、そのあとのこと。
自分のしたことをきちんと認識して、もし自分の行いで迷惑を掛けた人がいるならその人に誠意をもって謝罪し、同じ過ちを繰り返さないことを気を付けながら生きていく。
人を傷つけた代償に痛みを受け、そういう謙虚さを身につけていく。
いい年こいて、そういう人間として大切な部分を自分できちんと育ててこれなかったのは、その人自身の落ち度ですよね。
確かに、人は生まれた環境を選べません。
それによって培ったものがあまりにも他人と違いすぎれば、その軋轢に苦しまされることもあるでしょう。
でも、それは、少なからず誰にでもあることです。
もちろん、わたしにも。
わたしの場合は、時に、その事実は面白半分に他人によって吹聴されたり、それを知った誰かに迷惑をかけたわけでもないのに言われなき罵倒を受けたこともありました。
…でも、わたしは、それを悲しく思いこそすれ、恨んだことはありません。
誰も。何も。
そうした経験を経て、わたしは彼らとは違う感じ方をして、違う道を選ぼうと思った。
それだけのことです。
でも、そうして一生懸命生きてきたけど、その中で、知らないうちに誰かにひどいことを言ったり、傷つけるようなことをしたこともたくさんあるんだと思います。
何気なく言った一言が、実はすごく無神経な言葉だったことに後から気が付いて、あんなこと言わなきゃ良かったと自己嫌悪して落ち込むこともたくさんあります。
けれども、それを謝ることも出来ないことの方が多いんです。
人は、傷ついたことをいちいち他人に伝えはしない。
傷つけられたら、ただ、黙って遠ざかっていってしまうから。
かつての自分が、そうしたように。
他人は、自分を映す鏡。
誰かにした行いは、結局めぐりめぐっていつか自分のもとに反るのです。
それを、今のわたしは知っています。
人は、生まれ育つ環境を選ぶことは出来ません。
通ってきた道を変えることも、また、できません。
でも、これからどのように生きていくのかは、自分で選ぶことができます。
痛みを人に与えることも、誰かから傷つけられることも、当たり前に存在するからこそ、それをきちんと受けとめて生きていかなくては。
それが、自分が振りまいてきた痛々しい過去へと返せる、唯一の礼儀なのではないでしょうか?
だから、どこにいるかわからない敵に向かってダイナマイト投げまくってるようなことしてれば、そりゃあいつか当たり前に制裁される日が来るんですよ。
いい加減そろそろ、そういうことを学んでください。
ぶん投げたダイナマイトが、自分の足元に落ちて大爆発する前に。
ご本人のご立派なお言葉をお借りすれば、「鏡を見るのは勇気のいること」…なんですよね?
その勇気とは、一体何のための勇気なんですか?
ご自分の本質を認めずに自分の表面だけを飾り付けて、その醜さを隠すための勇気ですか?
その醜い本質を認め、それでも少しでも良くしようと努力するための勇気ですか?
きれいなお言葉を羅列する才能は認めますが、あまりにもそれが底の浅い上澄みをさらっているだけに見えますので。
少なくとも、表面上は沈黙を保ちながら、裏では絵に描いたようなきれいごとを並べて「私を信じて」と繰り返すだけの人間と。
多少そのやり方や言葉に問題があったとしても、自分が何がしたいか、何を知りたいか、まっすぐ本音をきちんとぶちまけてくれる人間と。
どちらを信用するかと言えば、答えは見えています。
鏡にうつるものが、自分が見ていたい自分自身の姿でしかないこと、それこそが傲慢なのです。
鏡にうつる自分の姿が清らかだと信じているからこそ、「私を信じて」なんて言葉が出てくるんですよね。
それを信じる方もどうかしてると思うけど。
もちろん、感銘を受けた言葉、心を軽くしてくれる言葉、感動を与える言葉、人として口に出した、作家として表現した言葉の中に、そのように人の心を動かした言葉があるということは、とても素晴らしいことだと思います。
が、だからといってその人間のすべての言葉が素晴らしいかというのは、また話が別でしょう。
耳障りのよい言葉を並べて人を良い気持ちにさせることより、敢えて苦言を呈して大切なことに気付かせることの方がよっぽど価値がある。
だから、わたしは、大嫌いなんです。
普通の人にはない才能を持っている人が、自分の保身のために、他者を丸め込むために、その才能を使うのを見るのも。
そういう人間が「私を信じて」といとも簡単に口にするのも、です。
本当に、品がない。