古いレールから乗り越えよう。時代は新しいレールへ。
学校の面白いを歩いてみた。
私立学校も、私塾も、地域もチャレンジしている。
公立学校だって、どんどん変わっていく。
「学校」は、今、変わろうとしている。
「学び」の本質に向き合った時、
「教育」「学校」という概念もシフトせざるを得なくなってくる。
明治維新前後、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「広告」「新聞」など、
これまでは日本にはなかった様々な外国語の概念が日本に輸入された。
ある意味、「権利」や「存在」や「社会」や「個人」という概念さえも、明治以前には日本にはなかったのだ。
「学問のすすめ」という当時の大ベストセラーを出した福沢諭吉も、
「自由」「家庭」「西洋」などの多くの外国語の概念を日本に紹介した。
「Education」が「教育」という言葉にされた時には、福沢諭吉は大いに違を唱えていたという。
福沢諭吉と森有礼の間で「Education」という概念を、日本語にどう翻訳するかという論争があったらしい。
「学校は人に物を教うる所にあらず,ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず,よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして,能力の発育にあり……。我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。」「文明教育論」(福沢諭吉)
福沢諭吉は、「Education」の本質を、教え育てる=「教育」というコンセプトではなく、本来の力を発達させる、引き出していく=「発育」というコンセプトにするべきと考えていたようです。
Withコロナの時代、明治維新のような新たな時代の転換点で、
私塾、コミュニテイスクール、STEAM教育など、
学びに関してのコンセプト転換のチャレンジは始まっている。
「能力開発から、興味開発へ」というコンセプト。
参加者全員が熱中する「魔法の授業」。「驚きと感動の種をまく」「受験も勉強も教えない教室」探求学舎のチャレンジ。
https://www.amazon.co.jp/dp/4908925259
学校を開いたら、町が人が風向きが変わった!
「コミュニティスクール」というコンセプト。人と学校をつなぐ町おこし先生のチャレンジ。「学校」は、町おこしの切り札になる!
https://www.amazon.co.jp/dp/4909972021
『利他の心』や『互助の心』とSTEAM教育の掛け算というコンセプト。
“正解”が重要でないAI時代に、私たちはどのような力をつけなくてはならないのか。グローバルで活躍する3姉妹のチャレンジ。
公立学校だって、どんどん面白くなっている!
教員と話をしていると、こんなに酷い職場だという話をよく聞かされる。
酷い、良くないことが分かっているのなら、「それを変えてみたらどうですか」と質問すると、「誰かが改善の声をあげたら同意しますよ」という返事がかなりの確率で返ってくる。
明るくて前向きな情報は、学校現場を自分たちの力で変えていく実践をしている人たちの話である。そういう話から、自分たちが行動するためのヒントが得られるかもしれない。
保護者にしても、明るい前向きな情報が我が子の教育、学校を考えなおしてみるきっかけになるかもしれない。そんな前提から、明るくて前向きな情報を求めての取材を始めた。
そして、教育を真剣に考えて実践しているたくさんの人たちがいることを知ることができた。取材してみると、
そういう人たち、そういう人たちの周りから聞こえてくるのが、「面白い」だった。
――「学校の面白いを歩いてみた。公立だってどんどん変わる」前屋毅著「はじめに」より抜粋
「学校の面白いを歩いてみた。」前屋毅著
いち早く企業と連携してICTを積極的に取り入れている学校、
「美術館」という異分子に協力を仰いで朝時間を有効活用している学校
などなど、「学び」の質や職員室を変えようと奮闘している各地の学校を訪ね歩いたルポルタージュ。
■目次
●「勉強は面白い」といえる子――モンテッソーリで学んだ女の子
●広島県福山市が挑戦する「分かる授業」
●普通ではない「役立つ」英語の授業をする教員(千葉県柏市)
●変わる教員たち――反発から率先へ(埼玉県所沢市)
●変わる教員たち――対話型鑑賞を教員に広げる試み(愛媛県)
●生徒・児童中心の考えが学校を変える――校則のない学校(世田谷区)
●学校に里山をつくる(横浜市)
●「大事なのは遊び」という世田谷区長
●学校はカラフルでいい(横浜市)
●ファーストペンギンをめざして(埼玉県戸田市)
●変わりはじめた文科省
●教員が授業を決める
――「学校の面白いを歩いてみた。」前屋毅著
「第6章」より引用抜粋して、ご紹介します〜
生徒・児童中心の考えが学校を変える
――校則のない学校
学校から校則がなくなった!?
「生徒中心の学校です」
その学校を訪ねたとき、廊下ですれちがった女子生徒に「どんな学校ですか」と質問したときに返ってきた答だ。彼女は何のためらいもなく、即座にそう答えた。その「生徒(子どもたち)中心」という言葉が、印象に残っている。
その学校が、東京都の世田谷区立桜丘中学校だ。どう生徒中心かといえば、校則がいっさいないところにもあらわれている。公立でありながら、校則のない学校なのだ。
創立当初から校則がなかったわけではなくて、途中でなくなった。それは、西郷孝彦さんが赴任してきたことがきっかけだった。彼の校長としての在任は、二〇一九年四月で一〇年目にはいっている。赴任してきてすぐに全部の校則をなくしたわけではないので、「九年ほど前から徐々になくなった」と表現したほうがよさそうだ。
「急に廃止しても、それまで子どもたちも先生たちも校則のある生活に慣れているわけだから、簡単には頭を切り換えられない。だから、徐々になくしていった」と、西郷さん。なぜ校則をなくしていったのかについて彼は、靴下を例にだして説明した。
「靴下は白でなければダメという校則があった。でも、なぜ白でなければならないのか理由が分からない」
そういわれると、たしかに白と決めなければならない明確な理由が頭に浮かばない。白だと汚れが目立つから清潔に保つ意識が働く、とかなんとか理由をつけられないことはないが、屁理屈にしかおもえない。
「だから生活指導主任の先生に、『なぜダメなの?』と訊いたら、その先生も答えられない」
理由は分からないのに、紺の靴下をはいている子どもをみつけたら、教員は注意するのだ。「校則で白と決まっているだろう。紺はダメだ」といったぐあいにである。
「それはおかしいでしょう、といった。理由も分からないのに決めて、それでダメだと叱る。そうしたら生活指導主任の先生が、『それなら紺もいいことにしましょう』と返事した。
それも、訳が分からない話です。白でなければダメという理由が分からないのと同じで、紺もいいことにする理由が分からない。理由が分からないのに校則で決めること自体がおかしい。だから、靴下の色を決めた校則をやめましょう、となった」
同じことは、セーターの色にもいえた。紺と決められていたが、なぜ紺でなければいけないのか理由を突き詰めていくと、分からない。それなら「やめましょう」となった。
そうやって校則の一つひとつについて時間をかけて論議していくと、どの校則も理由が分からない。だから、次々にやめていったところ、校則そのものがなくなってしまったのだ。校則を廃止するのが前提だったわけではなくて、ほんとうに必要な決まり事なのかどうかを検討していった結果、「いらない」となったにすぎない。
頭ごなしに叱りつける校内放送に怒りが爆発
校則で決められていないことでも、教員は子どもたちに対して「ダメ」といいがちである。子どもたちに注意したり叱ったりするのが自分の仕事だと思い込んでいる教員が、どうも多いように感じる。そういう風潮に流されないようにしているのも、桜丘中学の特徴かもしれない。西郷さんが続けた。
「ちょっと前にも、雨が降ってきても校庭で鬼ごっこをして遊んでいた生徒がいたんだけど、『雨が降っているから教室にはいりなさい』と校内放送で子どもたちを叱った先生がいたのね。その先生は転任してきたばかりの先生で桜丘中学のやり方に慣れていなかったからなんだけど、僕は怒ったよ。なぜ雨が降ったら校庭で遊んだらダメなの、雨が降っていても遊ぶと自分たちで決めているんだから、それでいいんじゃないの、ってね。もし風邪をひくのが心配なら、校内放送で頭ごなしに叱るようなことをしないで、自分が外に出て行って『風邪ひくよ』っていえばいい」
校内放送で頭ごなしにいわれるのと、自分も雨に濡れながら怒鳴るわけではなくて、しかも理由をちゃんと説明して注意されるのと、子どもたちの受け取り方はどうだろうか。校内放送でやられたら、すぐに子どもたちはいわれたとおりに教室にはいるかもしれない。しかし、納得しているわけではないかもしれない。
外に出てきて「風邪ひくよ」といわれたら、「だいじょうぶだよ」と子どもたちがいい返してくるかもしれないが、それは反発といった意味合いではないかもしれない。
そういう反応なら話し合ってみればいい。子どもたちと教員の対話につながっていくかもしれない。
それは可能性だけかもしれないけれど、頭ごなしの態度からは絶対に生まれてこない何かはあるはずだ。ただ「ダメ」と抑えつけても反発が先に立つだろうし、それが理由がはっきりしない、納得のいかないものであれば、なおさらのことだ。_
「愛情ですよ。規則で押しつけるんじゃなくて、愛情をもって、そういう気持ちで教員が子どもたちと接することができるかどうかじゃないですか」
西郷さんはいった。ダメなことの理由を説明して子どもたちにダメといえるかどうかは、愛情があるかどうかが大きいというわけだ。そこのところが曖昧になっていることが多いのかもしれない。
「僕が先生たちにいっているルールは『自分ができないことを頭ごなしに子どもたちに押しつけないこと』、それだけです」
そういって西郷さんは、「だから先生も自然体でいいんだよ」と続けた。「自分は子どもたちより上」という意識が教員は強いために、その体面を保とうとして、ついつい抑え込むような強い口調にもなってしまう。頭ごなしになってしまうのだ。
「生徒の前で先生が間違ったことをしてはいけないとおもっているから体面を保とうとする。だから、先生も生徒の前でたくさん失敗すればいい。失敗しちゃったら、『ごめんね』っていえばいいんだから。僕なんか、いつだって子どもたちに謝ってます。『約束していたけど忘れててできなかった、ごめんね』ってね。体面なんて保つ必要ないから、頭ごなしな言い方もしなくていい。規則、規則といわなくても、ダメなことがあれば、ちゃんと理由を説明して指導すればいい」
そうすれば、わざわざ規則なんてつくる必要はない。理由も分からない規則で子どもたちを縛るより、ちゃんと理由を説明してくれて、しかも頭ごなしではないのだから、子どもたちも素直に聞き入れることができるというものだ。そして自分たちと同じように失敗も多いと分かれば、身近に感じられて、なおさら素直になれる。規則なんてつくる必要など、どこにもないではないか。
「ダメ」の言葉かけは、信用していない証拠
実は子どもたちも、頭ごなしに「ダメ」といわれない桜丘中学の環境に最初のころは戸惑うそうだ。なにしろ、それまで一方的に「ダメ」といわれる環境で育ってきているのだから、それに慣れてしまっているからだ。
「だから、子どもたちも慣れるのに一年ぐらいかかるかもしれないな。人と違うことをすると『ダメ』といわれてきたから人と同じようにしなきゃいけないとおもっているし、人と同じにようにしないと『ダメ』といわれて『変なヤツ』とおもわれかねないと心配しているからね」と、西郷さん。
それで「ダメ」という環境に慣れてきたら自分勝手でメチャクチャなことをする、という心配があるかもしれない。まずは規則をつくるのも、最初から決めておかないと子どもたちは何をしでかすか分からない、とおもっているからだろう。規則ありきの環境は、結局のところ、子どもたちを信用していないからだ。規則で縛ることは、「信用していないぞ」と子どもたちにいっているようなものだ。
逆に校則のない、規則のない環境というのは、子どもたちを信用しているからできる環境なのではないだろうか。子どもたちにしても、信用されることを嫌う理由はないはずである。信用されている自覚があれば、それなりの自覚というものももてるはずである。自分で考えて責任のある行動もとれる、というものだ。
「だから桜丘中学では、生徒が問題を起こすなんてない。生徒も一人ひとりが違うじゃないですか。その一人ひとりと向きあうのって面白いよ。面白いという表現はおかしいかもしれないけど、教育って面白いなとおもっています」
取材で桜丘中学を訪ねた日は、たまたま寒い日だった。ちょうど体育館では翌日の合唱コンクールのための練習が行われていたのだが、子どもたちはおもいおもいの上衣をはおって練習していた。校則で服装が決められていれば、子どもたちは同じようなコートを着ているか、もしくはコートを着ることも許されず寒さに震えていたかもしれない。寒さを我慢しながら満足な練習ができるわけがないことはいうまでもなく、それだけでも規則のないことのメリットではないだろうか。こどもたちにとってどちらが良いのか、もうくどくど説明する必要もないではないか。
それでも、こんな学校は珍しいのが現実ではある。校則のない、頭ごなしに「ダメ」といわれることのない桜丘中学を「一般的には変な学校かもね」と、西郷さんもいう。
それに対して、「こんな変な学校が当たり前にならなきゃいけないんですよね」とわたしが返したら、「良いこというね」といって、西郷さんは満面の笑みで答えた。
――「学校の面白いを歩いてみた。」前屋毅著
「第6章」より引用抜粋
https://ameblo.jp/essential-pub/entry-12603397340.html
■エッセンシャル出版社LINE公式のご案内
エッセンシャル出版社の公式LINEです。
今、エッセンシャル出版社のLINE公式に登録していただくと、
「風の時代を先取りする生き方」を実践しているギフトを生きるアーティスト・石丸弘さんの電子書籍をプレゼントしています。
その他、無料プレゼントや、オススメの情報、イベント情報などを配信しております。
是非、ご登録くださいませ。













