鶴屋城 | 根多帖別冊 by おしろまん

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隔月発売『歴史群像』のなかで毎回楽しみなコーナー「戦国の城」今回は豊後国佐伯城

香川元太郎先生復元鳥瞰図がスバラシイ。

 

だが、今回気になることがあった。ふたつ、あった。

 

建築物は黒(下見板張)ではなかったか?

西出丸の塁線は直線ではない  という点。

 

このことをTwitterで呟いたところ、香川先生ご本人からリプいただき、恐縮しているわけだが…

どうやら昨年発刊された『佐伯城跡総合調査報告書総論編』(以下『報告書』)の情報が加味されていないようである。

 

建築物については、享保の修築で漆喰に建て替えられた可能性がいわれている(幕府に提出した指図に白い建物が描かれている)が、明治初期の『御山城之図』では黒。

本丸Ⅰのaは天守台といわれているが、昭和四年に毛利神社が建てられ空襲にも遭っていることから、この現在「天守台」と呼ばれている石段に築城当時の天守が建っていたとは考え辛い。

 

本丸東のcは二重櫓が建っていた場所(歴群では平櫓)だが、上記神社建設の折石段がつくられ、江戸期の修築で石垣隅角を角丸にしたという話はガセで、この昭和四年の改変(図の薄灰色部)であったらしい。

 

『歴群』では捨曲輪はS-2・S-3についてしか述べられていないが、S-1~4まである。

画像↓ 本丸Ⅰより北出丸虎口f・mをのぞむ。この場所には平櫓があったらしい。 

画像↓佐伯城跡総合調査報告書総論編3より

二重櫓は重箱櫓で、図の平櫓(縄張図e)は懸造りであったらしい。

『歴群』では二の丸北の二重櫓も懸造りだが、『報告書』を読むとそうは思えない。

下図は新たに顕在した雛壇状石垣 本丸下曲輪Ⅲと北出丸Ⅴの下を補強した。

北出丸mから降りた貯水池・雄池oと雌池pも石垣で築かれていたが、平成29年の水害で壊れてぼくが訪れたときは修築中で細かくは見れず。

 

今回改めてこの『報告書』を読み直すと、慶長六年毛利氏築城以前にここに城郭があった可能性や、『歴群』で懸造りを想定した二ノ丸に重櫓の下の石垣にハバキがあること、山下・三ノ丸南の尾根に 尾ノ上茶屋(翠明台)という平場があることが確認できた。

 

また行って確認のうえ、図に反映させたい。