城郭併設大名庭乃軍事性 | 根多帖別冊 by おしろまん

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絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

 昨日のZOOM飲み会 『諸説あり』 テーマは 『にわ』  

とりかたはいろいろでしょうが、珍しく私はドストレートに大名庭園それも 

「日本三大名園」 について喋りました。兼六園・後楽園・偕楽園

 

 これらの庭園が、金沢城・岡山城・水戸城 の出城的機能を果たしていた…という話があり、そこら辺を検証したかったのですが。

 兼六園は寛永九年(1632)辰巳用水の開設で水不足が解消された小立野台地先端の、金沢城に隣接する地に延宝四(1676)から造営されたもの。

 本丸は台地に隣接していたので緩衝地にはなったでしょう。

 後楽園は貞享四(1687)から造営が始まり、元禄十三(1700)完成。

後楽園ができるまでは、岡山城天守は旭川対岸から約一間町で、園ができたことにより三町以上の距離がとられたと。

大砲戦には対応できないかな…また「池を濠に、築山を土塁に」なんて話もありますが、私が見た限りでは疑問符

 偕楽園は、水戸老公光圀…かとおもいきや烈公斉昭によるもので、天保四(1833)の造営ということです。

これも台地先端で北の那珂川・南の千波湖れた水戸城の、丘続き南側という地理と、烈公の性格を考えると出城という向きもありますが、時代的には少々遅いかなと。

 

 ということで、以上からわたしの結論としては、

「大名庭園は城郭主要部と城外との緩衝地にこそなれ、『出城』とまでは言い難いのではないか」という事に相成りました。

 

 もし出城として必要なら築城期とさほど離れずにつくられると思うし、これらが敵の手にわたると頗る守りにくくなると思うのですが。

 

追記:にわ というにはちょっと違うかもですが、故郷・オオイタ県にはこういった場所があります。

 豊後大野市朝地町・用作公園 竹田・岡藩の家老の別邸跡で紅葉の名所です。

日本三名園のような派手さは無いながら落ち着く場所です。バイパスが竹田まで通ったようなのでアクセスもしやすくなったかな。

ここも岡藩の隠し砦のような場所かと思ったのですが…。まあ尾根上のピークであるということ以外はまあただの別荘でしょうなぁ。