お城好き飲み会 “諸説あり” に参加いたしております。
10月3日の会は、道partⅡでした。 城の動線=城内の道や道に沿った各勢力の伸長などについて話がありました。
私は、『交通の要衝多すぎ問題』 ということでお話をさせていただきました。時間を大幅にオーヴァーしてしまいご迷惑をおかけいたしました。
元々一昨年秋に、某お城会の特別例会で、「何でもかんでも、どこの城も“交通の要衝”にし過ぎじゃないか」 とおっしゃる方がいたのを覚えていたのです。
で、まあとりあえず播磨や最近よく訪れる備中備後や丹波の旧街道の地図なんかをつくっていたのですよ。そこで気づいたのです。
「城って、要衝だから築かれんじゃね?」
…
中世の西国街道沿いを見ると、『新九郎奔る』の備中伊勢氏の居城である高越山城をはじめ、全面発掘された南山城・村尾城 (あ、神辺って書いちょるが) や牛ノ皮城をはじめ、旧街道沿いに著名な城があるのがわかります。(勿論それ以外にもあるので恣意的だと取られてもしょうがないっすが)
中国を制圧した毛利氏は、山陰方面を吉川少輔次郎、山陽方面を小早川又四郎に任せたといわれますが、司馬大人の書かれたものなので果たして、どうか。
その又四郎は高山城・新高山城から三原に移ってから対四国・対織田氏を見据えて瀬戸内の水軍を管轄に収めるようになったように感じます。
そこで、旧街道である山陽主往還を抑える為に人選されたのが、右馬頭の四男・穂井田少輔四郎元清であったと考えます。
少輔四郎は猿掛城を拠点に常山~麦飯山に入り、対宇喜多戦を指揮し、天正十年以降は矢掛の茶臼山を本拠とします。
毛利の 「四本目の矢」 が機能するにあたり、中世西国街道が大きな役割を果たしたのでは…というお話。