備後神辺城は、歴史的な呼称ではないというのはとても驚きました。
南北朝期に創建されたという伝説があり、16世紀には府中 (八尾山城か) に代わり備後の主城となったというカンナベ城
それまでは 『村尾城』 であり、『神辺城』 と呼ばれたのは早くとも慶長以降であるらしいです。
東から来る中世の山陽主街道を抑える黄葉山 (標高133m) 上に位置します。
織豊期には、毛利右馬頭の七男・毛利少輔七郎 (末次元康) が入りますが、海を抑えるために王子ヶ城 (現・福山市深津) を築き移ったとか。
一旦廃城になりますが、毛利が減地移封のあとは安芸備後49万石の福島左衛門太夫の支城となり、福島丹波守正澄が入ります。
ぼくが最初に訪れた8年前、織豊系城郭があったという痕跡はほぼなく、矢穴のある花崗岩を見て雀躍りしたものです。当時描いた現状鳥瞰図も酷いものです。縄張図を摂らなかったらこんなもんです。
いまは伝主郭Ⅰの南東斜面に結構大きな石が数石、4mにわたって残っています。(図の茶色線部)それらを図にしたのがこれ
城域南東の毛抜堀と伝承される堀切 (画像下) や、城域西端の畝状空堀Эは中世のころからのものであろうか。
北東の郭群Яはどうなのでしょうかね。通路上に土塁があるようですが、果たして明治以降の可能性はあるのでしょうか。
この、結構規模の大きかったと思われる石垣から推察して、織豊期の復元図が↓あくまで私の想定です。
本丸北の「井戸」といわれる窪みは井戸であるか疑わしいです。私は石垣の抜き取り痕ではないかと思っています。
城内通路も含め、公園化による改変が酷く (精密な調査はされていない模様) 復元は難儀です。
あくまで想像図ですけん