以下、以前に書いた記事です。下書きとして残っていました。
よく、織豊系城郭の石垣は安土城に始まるといわれます。
安土城 ❝攻めるも守るも❞ 黒鉄門
ぼくらが子供のころから、安土城の石垣は「見せるため」とか「権力の誇示」だという説はありました。今はもう一歩進んで、当時権力の有った寺社からその権威を取り上げたことを誇示する目的だなんていわれています。
しかしどうでしょう?
築城主体が「そうであった」と書いた文献でも見つからない限りそれが正しいとは限らない。
安土城以前にも城(中世城郭)に石垣が使われることは多くあった。たぶん一般に知られている以上に多かったと思われます。
播磨国佐用郡 長谷高山城
ただ、その頃「石垣」「石積み」といえば圧倒的に寺社で使われていました。
石垣が寺社に使われた理由ってなんでしょう?
ぼくは ①土留め と ②平場の確保だと考えています。
お城で石が使われるときも当然この理由によるものであると。
中世の城址で、石を使ったものの中には、土塁の曲輪内部に使った例も多いです。これは『権力の誇示』や『見せるため』のものでないのは明白です。外に向いてないのだから。
同様に近世城郭でも城内随一の立派な石垣が城下や街道から見えない場所にあることはよくあります。
若桜鬼ヶ城 なんて最たるものではないかと。備中鶴首城なんかも、主郭はほぼ石積みでつくられていたと思われますが、これたぶん城下からは見えないでしょうね。
合理的な思考の総見院が、重層の瓦建造物を建てるための平場確保のために石垣を導入したと考えます。権力の誇示は副産物としてはあったかもしれませんが。
高石垣を含め織豊系城郭や近世城郭を説明するのに 権力・権威・見せる・威圧 などということばで解釈を述べているモノをみるたびなんか釈然としないので僭越ながら。