お城を築くうえで、まずはじめは高低差を利用しただけの人工の壁 『切岸』 で区画したと思われる。
高低差がない場合には 『堀』 を掘り、でた土を掻き上げて 『土塁』 を築いた。
そのうち高低差がある切岸の上部にも土塁を築くようになったのではないだろうか。そのほうが守り易いうえに区画も明瞭にできるからだろうか。
ところが、土を固めただけの土塁は結構脆かったのではないか。土塁の内側に石積を施した中世の城があることに気付いたのはほんの数年前のことである。
石垣や石積は外に向いたものであるという思い込みのせいで見えていなかった。
↓画像は土佐の久礼城 (中土佐町)
ぼくがみた中では、画像の久礼、岡豊 (↓画像) のほか安宅八幡山城、紀伊藤原城などに見られた。
画像の岡豊城は“三の段”と呼ばれる主郭西下の曲輪だが、見事なまでの石積が1.5mの高さで積まれている。
石積近くまで建物があった痕跡=礎石があり、石積と礎石の間は水を掃けさせる溝まである。
ここまでした処はそうないであろうが、要は土塁が建物の方へと崩れるのを防ぐためであろう。一般にお城の研究者の方はこれを 『土留(どどめ)石積』 と呼びならわすようだ。
また、播磨の中道子山城では試掘した箇所から見つかっており、昨年調査され破壊された多可郡
(西脇市)喜多城山城でも発掘されたようである。あ、丹波・三ノ宮東城も発掘で見つかったか。
中世の土塁を持った城は表面観察で見えなくても、この土塁内側の石積を持った城がもっとあるのではないだろうか。