佐田氏 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
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さて、やっと先月11日に訪れた四番目の城、安心院の佐田 (青山) 城のことを書こうと思います。

が、その前にそれを築いた佐田一族のことなと…

下野 (栃木県) の宇都宮氏の一族が豊前国に下ってきたのが城井氏ですが、そこから別れて此所に土着したのが佐田氏初代・親景で、応永六年です。

龍王城から5kmほど東で、さらにすぐ東は豊後国です。

室町中期には豊前は大内氏の分国だったため、城井氏一族はこぞって反大友氏でした。

佐田氏もご多分に漏れず大内傘下で、宇佐郡衆の中心的存在でした。
地理上も国境なので文字通り 『橋頭堡』 だったのでしょう。泰景のときその青山城を囲まれたこともあったのですが守りぬいています。

お返しとばかりに勢場が原の戦いでは立石峠を守っていた大友勢の裏を書き、ここ佐田から豊後へ侵攻する案内役を務めました。このときの当主は朝景というひとでした。

しかし大内氏が滅びて毛利氏が多々良浜で駆逐されると当主・隆居は城井氏とともに大友氏に従ったようです。

本家の城井氏が豊関白や黒田氏に滅ぼされると豊後一国に押し込められた大友氏に従い豊後へ去ります。

大友氏が壬酉倭乱の失策で国を失うと、当主・鎮綱は佐田に戻りました。

それでも黒田家には従わず、慶長五年戦役後に封じられた細川家には仕えています。

そのまま細川家の熊本転封に従い、子孫は熊本藩士として続いたようです。

やはり甲斐守<DQN越中守ということでしょうね。・・・ここで吉兵衛をdisるか?