粛々 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
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吉弘左近大夫鑑理

 国東・吉弘一族については以前すこし書いた⇒リンク

 上記リンクに書いたとおり、戦場で憤死する一族のなか、かれだけが戦場で死んでいない。

 ただ、だからといってこのヒトの功なかりしかと思えば絶対にそうではない。

 大友家の危機・・・永禄・元亀における筑前・肥前の兵乱を多大な犠牲を払ったとはいえ乗り越えたことはやはり臼杵鑑速・斉藤鎮実・戸次鑑連といった武将もさりながら、戦後立花城督を予定されたこのひと=吉弘左近がいなくては成し得なかったのではないか。

 なにせ戸次鑑連が立花城督に就任したのはこの人が病気になり、立花城に入れなかったからなのだ。ダデや家柄ではそうはならないであろう。

 龍家を滅亡寸前まで追い込んだ佐賀城包囲戦のときも山城クマから和睦の仲介を頼まれているが断っている。彼が頼られるほどの人徳と権勢を持っていたのを窺わせると同時に向背常ならぬ山城クマの人柄を見抜いてのことといわれている。このことで山城クマから 「いやいや」 といわれたのは有名な話。

 このひとの陶薫あるいは家に引き継いできた家訓或いは家臣団といった数々のものが、戦国史に異彩を放つかれの次男・高橋紹運の岩屋城攻防戦、またかれの孫である立花左近の数々のエピソードになるのである。

 華やかな死に場所を得られなかったことがかれに粛々と任務を履行した能吏といった印象を与えている。歴史の歯車がどこかで違ったかとすれば、紹運や立花左近くらいの逸話は残せたであろう。
  
 こういうひとがいたからあんな主君が一時とはいえ九州最強でいられたのであろう。

 かれの没年・・・生年に?がついているので確かではないが通説に基づけば50をいくつか超えている。当時としては平均くらいであろうが、また歴史にifはタブーであるが、かれがもう10年・・・いや6年 (具体的すぎるが日向高城の役までである) 長生きしていれば筑前 (立花山・岩屋) は吉弘一族が押さえ、戸次道雪 (立花ではない) は日向で田原紹忍に替わって指揮を執り、あのような無残な負け方はしなかったのではないか・・・。

 まあ、道雪は宗麟に疎まれて立花城に行ったという噺もあるのでそう上手くいくかどうか・・・。