府 | 根多帖別冊 by おしろまん

根多帖別冊 by おしろまん

おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
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根多帖別冊 by えすくおやじ 大分というまちは、旧城下町である。

 が、僅かに残った城跡 (府内城・城址公園) 以外それを感じさせるものがない。

 たとえば大分県内の、中津・杵築・日出・臼杵・佐伯・竹田・日田・森 (玖珠) といった近世城下町は、どこも城下町の雰囲気が色濃く残る大変すばらしい町並みが残る。

 県都大分市のみが例外といっていい。

 都市の歴史によるのだろう。大分=豊後府内 は、上代より豊後の国府が置かれ、大友氏が守護だった頃もずっとこの国の、あるときは九州の中心であった。

 猿太閤はそれを是とせず、僅か一万石で早川という吏僚を豊後府内に封じた。北九州の中心は日田にしようと考えていたのではないか。

 猿がボケてからは、実質天下を裁量した石田治部が、この国の主邑である豊後府内に12万石を添えて娘婿の福原右馬介に与え、さらに大友時代の城館を捨てさせ新城を築かせたのは、そのまちの歴史や箔を彼に背負わせることにより、権威をつけようとしたと小生は考える。

 当然彼が新しく築いたかれの城は、ゆくゆくは豊後ひいては石田与党の根拠地となるはずであったのではないか。

 福原右馬を改易したのは、狸オヤジである。

 狸の考えでは、第二の石田=福原ラインの復活を危惧したのではないか。ここに竹中伊豆三万五千石を封じたあと幕府は江戸期を通じてここに三万石以上の大名を置かなかった。佐和山のあと彦根に最も信頼する井伊掃部頭を三十五万石で封じたのとは真反対である。

 狸ドモの子孫がこのくにを化かし続けた270年余りが過ぎると、地の利を考えればここが豊後のち大分県という名前の行政区分の中心になったのは自明の利であったと思う。

 ところが赤猫の眷属たちは、それに反発したらしい。中津や竹田は我がとこのほうが石高が大きいということを言っただろうし隣の鶴崎でさえ、「なし大分んごたるとこん言うことを聞かなならんのかえ!」 と露骨に反対したらしい。

 戦後、この街が新産業都市に選ばれ、そのもっとも優秀な例として挙げられるころにはさすがに県都は大分市という認識になったらしい。

 つまりは、僅か二万二千石の城下町を、新産業都市が覆い潰してしまったといえるのではないか。
 
 上記で豊後府内=大分市中心部に古い町並みが残っていないことの説明になるとは思っていないが、日頃思ったことをなぐり書きしてみた。

 その覆い潰されたまちで上の写真のような歴史を感じさせるものが見つかると、凄く嬉しくなるのである。