いや、今では豊後の辺境に残存しているだけかもである。
![根多帖別冊-濠](https://stat.ameba.jp/user_images/20100119/01/esqi-oyaji/8b/68/j/t02200217_0800078910381002126.jpg?caw=800)
この城名を知ったのは中学生の頃、はじめて
手に入れた城本 (シロボン)
小学館探訪ブックス 『城9 九州の城』 であった。
ここで大分市の中枢にある豊後府内城 (荷揚城
または白雉城) のことを 『大分城』 と紹介していた。
結論:こいつが全て悪い!
ぼくは地元で 『大分城』 なる城名を聞いた事が無い!
一般には市役所の隣、堀と石垣に囲まれた一角を 『城址公園』 とよび、便宜上
『大分城址公園』 と言うことがあるかもしれない。
だっけぇどぉ~だっけぇどぉ~だけどもだっけぇどぉ~
城名として 『大分城』 などとは
「そきぃすんじょんしゃぁ、だぁーれんそげんこたぁゆわーせんでぇ」である。
前出『九州の城』のなかでも 「大分城と言うのは歴史的呼称ではない」 と書いてある。
そやったらそげん文書くなや!!!
うちらが呼び習わしていたのは 『府内城』 である。
ひょっとすると各国府にあった城を 『府中城』(例:甲斐府中=甲府 駿河府中=駿府)
といったのに、豊後如き片田舎が “府内” (江戸“御府内”といった都心的感覚・・と思った中央の奢った感覚が) を名乗るんじゃあねえ!ということなのか。
![根多帖別冊-gakken](https://stat.ameba.jp/user_images/20100119/01/esqi-oyaji/67/46/j/t02200286_0220028610381013150.jpg?caw=800)
フザケルナ!である。
はっきり言おう! ソコにおらん、実際使ぉちょらん
氏どぅがヒトがたん城ん名前を勝手に変えんで!
〔語尾オクターブ上がる〕
『大分城』 なんか無ぇっちゃ!ありゃァ 『府内城 (荷揚城)』 やけん。
ついでに、以前木島先生に質問させていただいた 『府内城の天守は望楼型を塔層型に建て替えた』
と書いてあった本を確認する。
こっちは学研である。
ちなみにこの本には豊後日出城のことも望楼型を塔層型に建て替えたと書いてある。
暘谷城に関しては築城者である木下延俊の義兄である細川与一郎忠興が彼の美的感覚から小倉城の先駆となるべき逓減率が望楼型に近い塔層型の先駆天守がはじめから上がっていたと、状況証拠ではあるがおもわれる。
だいたい豊後府内藩2.2万石、日出2.5万石外様
城持ちであることですらギリギリであるのに天守を立て替えるなど幕府が許可しないであろうし金銭的にも無理であろう。それができるのであれば落雷消失のあと再建されるであろう。
私が小学生だった頃読んでいた出版社二つが揃いも揃ってこんな本をつくる・・・。
こげぇなすもしれんトッパクロんじょー書くんやったら、廃刊になった 「学習・科学」 しゃんと作リ直したらどえーかエ。