日本における最初の肖像紙幣に描かれた女性は『神功皇后(じんぐうこうごう)』です。日本最初の公式国史書の『日本書紀』や『古事記』に記述されている神功皇后は、日本の第14代天皇・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后で、仲哀天皇崩御から息子の応神天皇(おうじんてんのう)即位までの約70年間統治した初めての『摂政』として、『熊襲征伐』『三韓征伐(さんかんせいばつ)』を実施すした、美人で極めて勇猛果敢な日本女性として知られています。

「神功皇后」『慶応頃錦絵帖』一猛斎芳虎 作
仲哀天皇崩御のあと、神功皇后(じんぐうこうごう)が再び神意を占われたところ、まず「汝命(皇后)の御腹に坐す御子」が将来天皇になられるであろうことを予言され、今こそ神威を奉じて新羅に遠征すべきことを勧告する神託があったといい、その教えどおり、軍船を率いて出兵した勇ましい神功皇后に恐れをなした新羅国王は「吾聞く、東に神国あり、日本といふ。また聖王あり、天皇といふ。必ずその国の神兵ならん。あに兵を挙げて距ぐべけんや」と言い、「素旆」(白旗)を挙げて降伏してきました。
そこで、ほとんど戦うことなく凱旋された皇后は、筑紫の宇瀰(福岡県宇美町)において皇子(応神天皇)を無事出産することができました。この三韓征伐物語の骨子は古伝に基づいていて、高句麗の「好太王」碑文にも刻まれています。これによれば、4世紀末前後に日本人が何度も海を渡り、百済や新羅を服属させていたことが裏付けられます。
碑文内容「倭、辛卯年(391年)に来りて海を渡り、百残(百済)□□新羅を破りて臣民と為す。……九年己亥(399年)、百残、誓に違ひ、倭と和通す。……新羅、使を遣して王(好太王)に白ひて云はく、倭人、その国境に満ち、城池を潰破し、奴客を以って民と為せり……と。……十四年甲辰(404年)、倭、不軌にして帯方(半島の中西部)の界に侵入す。……」

歌川国芳画「神功皇后」
神功皇后はやがて住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱として信仰されるようになり、数多くの武人が神功皇后を崇拝し、言い伝えは九州はもとより関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、四国と、日本中に数多く存在します。
全国に約40,000社ある八幡宮の総本宮の大分県宇佐市の宇佐神宮、全国に約2,300社ある住吉神社の総本社の大阪府大阪市の住吉大社、京都市伏見区の御香宮神社や所縁ある福岡市の香椎宮や筥崎宮、福岡県宇美町の宇美八幡宮など全国の八幡宮、住吉神社でご祭神として祀られていて、人々に古くから親しまれてきました。 中でも宇佐神宮は皇室から伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬されています。

歌川国貞画「御誂座敷幟ノ内 神功皇后と武内大臣」
日本書紀や古事記に記述されている歴代天皇や皇室にまつわるエピソードや史実は、日本の国柄を表す特徴的なものであり、日本精神や日本人らしさを表意する大変貴重な資料であり、日本人の誇りです。