最初に言っておきます。いじめ問題があるのは日本だけではなくアメリカだって同じ。おそらく世界中どこにでも起こりうる、人類共通の、ダークな部分です。
しかしながら最近のいじめ報道を見るにつけ、今の日本の学校が持つ体質が後手後手の対応を生み出しているのはまぎれもない事実だと思います。
アメリカでは、というとアメリカかぶれのようで恐縮ですが、私は日本の他ではアメリカでしか教壇に立ったことがないので、アメリカのお話で失礼します。
私のつたない経験上ですが、アメリカでは教師だからといって、日本の先生がよく言うような「みんな仲間だろ。」という同調を求めることはあまり考えられません。目的を持って集まったスポーツのチームなどではグループの一体感を求めることはありますが、それも自分の生れついた個性を殺してでも仲間と同調しろというものではないし、もしそうだとしたら、それが嫌なら辞めればいいのです。あなたの個性を殺さず、受け入れてくれるチームもきっとあります。
みんなと仲良くしなくてもいい、と言っているのではありません。むしろ反対で、考えが合わない人、つまり仲間ではないけど自分の生活に関わる人と摩擦を起こすなということ。
それが、社会に参加するためのエチケット。
大統領を迎える議会が、腹の中ではどれほど立場が違っていようと必ずスタンディングオベーションで敬意を示すこと。
国を二分していた大統領選でも、終わってみたら憎き政敵のはずの当選者に、負けた相手候補から直接に電話で祝辞を述べること。
これは、考えが違っているものを無理に一緒にして「仲間」扱いせず、自分たちの主張を守るための大切な「節度」です。
日本人の「みんな仲間」に代表される一体感は、突出するものがなくみんなが頑張りあって社会が成り立っていたときには大切なものでした。
でも、社会が多様化し、お金をはじめいろいろなものの価値観が多様化する中で、学校だけが相変わらず十年一日、いや百年一日のように、たまたまそこに居合わせた40人もの生徒を「仲間」としてひとまとめに扱うことは、ある意味ではとても乱暴なことです。「友達」や「同級生」と「仲間」は違います。あるいは、それは違うと思う人もいます、というべきでしょうか。
みんなちがって、みんないい。
未曽有の大震災で傷ついた私たちの心に寄り添うような、この美しい詩をつくった金子みすずは、しかし女性が詩作などするのはけしからん、という当時の社会通念に翻弄され、「ものいえば唇寒い」生涯を送った人です。
人には様々な個性があります。「絆」がどれほど大切なものかは、私たちはもう充分に分かったはず。そのうえで、安易に「仲間」とひとくくりにせずいろいろな温度でいろいろな人とつながっていくための知恵を、(たとえ変わっていると言われてしまっても)私は求めたいと思います。