佐賀県の【サガ】語元は「山幸彦・海幸彦」物語に関連する!! | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

…此のブログ記事は、新たな日本の元号…【令和・元年=1年】平成31年=2019/04/01・月曜)が発表された日、つまり、帰郷先の伊万里市内(佐賀県)から発信しました~

 

佐賀の語元(黎明的な語源の意ではありません)の一つ賢女(サカシメ/賢い女性)とは誰か!! 

 

日本語の元点であるヤマト言葉【カミ】の語意は、基本的に、「自分より上方」を言い表す文言【カミ=上方の意】(髪の語元も同義的発想に由来)として造語された。従って、ヤマト言葉【カミ=上方の意】に対し、地神崇拝を字源とする漢字【神】を当て字したのは間違いである。敢えて漢字を当て字するな【上】(カミ=ウエ)の文字が適切でる。

 

…日本最大の大型甕棺墓は佐賀県の【姫方遺跡】(佐賀県三養基郡みやき町簑原/吉野ヶ里遺跡の少し東側)とされている。その甕(カメ)の語元(語源の意ではありません)は、三輪氏族で大物主(役職名)「クシミカタマ」(櫛甕玉の御名に起因しする。つまり、【ミカ】(甕)とは、God【カミ】に近づく事を意味する文言だからである。つまり、「天のミカ)に斎(い)み籠(こも)りて」(延喜式・祝詞/出雲国造神賀詞/出典・小学館デジタル大辞泉とあるからである。因みに、【甕】(ミカ)の元義は、ヤマト言葉【ミカ=甕】(秘儀数価58=カミの語元数価)の呼称文字の入れ替え文言だからである。因みに、物理的に【カミ】(島国ヤマトから遥か西域に位地するエルサレム)に近ずくには、「大型船」(カメ船)に乗る必要がある。従って、大型船に対する呼称は【カメ=甕/亀】と命名された。

 

…佐賀県の【サガ】の語元は~『肥前風土記』(景行天皇の皇子ヤマトタケ=日本武尊の巡幸説話)に起因する。つまり、肥前国には、大和(ヤマト)町久池井附近に、【賢女(サカシメ)郡】があった。それが訛って【佐嘉(サカ)郡】になったとされている。つまり、その【賢女】とは、『日本・カミヨ物語』の中の「海幸彦・山幸彦」(ニニキネ=瓊々杵尊/山幸・山幸彦の父物語に起因する。つまり、ニニキネ尊は、当時、九州全体筑紫の語元=身を尽くし国を生む/澪標の語元の国造の為、九州に住み着いて活躍し、高千穂で昇天(日向の語元と成る/妻が住む日の出の方を向く意)する。因みに、瓊々杵尊の3皇子の中の二人、つまり【次男・海幸彦】と【3男・山幸彦】の話の中で、兄の釣り針を失って弟は困っていた。それで、塩土の翁(東北/鹿島地域を含む宮城県地域を本拠地としていた)が大形船(ミカ=甕= カメ=亀船を用意し、失った釣り針探しに出発した。それは、敦賀付近(滋賀県大津を本拠地とする)から「カメ船」(ホツマツタヱ文書に記載あり)に乗り、杵島(佐賀県/有明海側)付近の佐嘉川河口の処へ連れて行かれ、その失った釣り針を探し出してくれたのは、佐嘉川近くの豪族の館に居た女性【賢女】(ヨトヒメ=與止日女)であった。尚、山幸彦は、豪族の頭の長女【トヨタマ姫】と結婚し、カミ代【第11代・ウガヤフキアエズ尊】(鸕鷀草葺不合尊)を生む。因みに…佐賀県の語元と成った「賢姫」(サカシメ)を祭った「ヨト姫・神社」は、佐賀県付近に集中して建立されている。

 

…日本国家としての初代「神武天皇」の御名は~「カンよりに名も、カンヤマト、いはわれひこの、あまきみと、あまねくふれて」(ホツマ・ホ29章と記す文言にある。つまり、「カン」とは「カミ」カバラ・秘儀数値58をに関連する)の語意と同義語である。従って、初代【神武天皇】の即位年は、暫定的に設定された「倭暦=アスズ暦・58(カミ)」、つまり、カミ数価【58・サナト=辛酉年】の年を用い、即位元年として設定された。、尚、それは日本人の聖書として、意図的に設定されました。それで~「カンやまと、イハワレ(祝はれ)彦」と言う。

 

★神武天皇の父【鸕鷀草葺不合尊】(ウガヤフキアエズノミコト)。その又父であるニニキネ尊の后【トヨタマ姫】は、佐嘉川(佐賀県)地域の出身でした。ちなみに、佐賀県の語元(語源の意ではありません)は、佐嘉(佐賀)川の近くの館に住む豊玉姫が生んだ…「御親アマキミ」(ウガヤフキアエズノミコト)のミコトノリ(詔)に起因する。つまり~「人草のミケ(食)繁る故、生まれ賢しく」~と言う文言にも関連する。

 

【追記】(大阪府八尾市に戻り資料を用いて歴年を組み込み再投稿)

 

「佐賀県」の語元に付いて~

 

★佐賀県の県名は県庁所在地の名称(佐嘉川)に由来し、この地名は古代から郡名として用いられ、『肥前風土記』(天平4年・732年~天平12年・740年完成?)の「佐嘉/サカ」(日本書紀/景行天皇18年4月夏の条=ホツマ・38章)。つまり、楠の栄え(ミケ/御饌・御食)説が有力とされている。然し、その『日本書紀』景行天皇紀の内容は、カミ名文字文書「ホツマ&ミカサ・文書」を厩戸皇子(聖徳太子)が漢字訳を以て編纂させた『先代匶事本紀大成經』(72巻本/佐賀県生まれの潮音道海 等による写本を以て出版~寛文10年=1670年に此の本が発見された)中の【旧事紀】(神皇本紀1~6=神武天皇~神功皇后紀迄/帝皇本紀1~6=繼體天皇~推古女帝36年迄)に取り込まれた記述文書の内容であった。要訳すれば、「佐賀県」の語元は、神武天皇の父の又父(カミ世11代目・彦火々出見尊)の后【トヨタマ姫】の出身地(佐賀県の佐嘉川地域&杵島地域等)に関連する。つまり、「カミ時代12代目・ウガヤフキアエズ尊」によるミコトノリ(詔)として~「人草(ヒトクサ)のミケ(食)繁る故、生まれ賢しく」(ホ・27章)~と言う文言に起因します。 

 

★日本国家成立年( 幻の西暦1年目・辛酉/古代ユダヤ民族の地域クムランを襲った巨大地震発生年から31年目に当る)に於いて初代天皇と定義する神武天皇の父の又父(カミの時代11代目・彦火々出見尊)の后となったトヨタマ姫の出身地は、現在の佐賀県にある「佐嘉川」地域(山幸彦彦が失った釣り針発見地域)でした。

 

★♒️ 【大型・甕棺墓】…「日本最大の大型甕棺墓」(佐賀県伊万里市からも発見)は、佐賀県の姫方遺跡」(佐賀県三養基郡みやき町簑原/吉野ヶ里の少し東側)とされています。その「カメ」(甕/壷形式で口が広い容器)の語意は、少し大きい船(山幸彦の乗物/浦島太郎の乗物とする亀にも関連する/ワニ船も在ったとされる)の呼称としても用いられていました。ちなみに、その「カメ」の語意は、カミ(上/God)との「接近法数値」(58/ゲマトリア数値/カミ時代は1世紀始め頃~4世紀中頃を時代背景とする)に関連付けられていて、神武天皇の即位年も予め設定されていた暫定暦(ア鈴・コヨミ)の「58年目」(辛酉/幻の西暦1年目)の時として設定されました。此の暫定暦(鈴木暦)による設定方式によって、現在の皇歴年が「紀元前・660年」(サコクシロ/接近法・数値年)として過去年へと引き伸ばされる原因に成っています。

 

★前回(平成31年=2019/04/01・日曜)も同じような記事を書きましたが、その時は【浦ノ崎駅・桜まつり】(先月/平成31年3月31日・日曜)に合わせ帰郷する時、歴史的資料を持参していなかったので歴史的年代を記載する事が出来ませんでした。それで、今回は歴年数値を織り込んで投稿した次第です…

 

★佐賀県伊万里山代町「楠久」(クスク)から【大発見】(ヤマト言葉の日本固有文字が保存されていました)~

昨日(平成最後の31年=2019/04/04・水曜)、「癒しの隠れ屋・お寺カフェ壹之寺茶房」(佐賀県伊万里市山代町楠久360)へ行ってきました。その元住職のお寺「本光寺」創建当時(飛鳥時代/592年~710年迄・飛鳥に宮都が置かれた崇峻天皇5年~和銅3年迄の118年間を指す)の文書中に、その日本固有文字(ホツマ文字)で書かれた文面が保存されているとの事でした。その寺が存在する地域は「カッパのミイラ」保存地域としても有名な処です。又、その地域も絶滅危惧種に指定されている「塩生植物」(ハマボウの花の木の群生地域だったとの事でした…

 

★画像は佐賀県伊万里湾の山代町海岸に現在も自生している「ハマボウ」(黄槿)の花です。尚、此の「ハマボウ」は、皇室の「佳子様」のお印とされている沖縄のユウナオオハマボウ/大黄槿)の花と同種です…

    …

 

★万葉集【第871番歌】…「得保都必等(トホツヒト) 麻通良佐用比米(マツラサヨヒメ) 都麻胡非尓(ツマゴヒニ) 非例布利之用利(ヒレフリシヨリ) 於返流夜麻能奈(オヘルヤマノナ)」(31字・和歌仮名…五七調定型詩)。因みに、其の後に連続する「歌四首」も定型詩で在ります。

 

★今日は待ちに待った佐賀県伊万里市【MR 浦ノ崎駅・桜祭の日です。浦ノ崎駅入り口南北の二本の小さな桜は、「新種・笹部桜」南側の木は未だ花が咲いていません)です。その特徴は、「4月上旬開花/旗弁有8~20・八重で淡紅白色」です。此の写真の桜苗木は、「桜守・笹部新太郎氏」の庭に芽生えた実生の桜の種をバイオ(西宮市の機関)で育てられた苗木です。ちなみに、此の桜は、成長が早く風雪に強い(喬樹・巨木性)。そして気品があり嫩(ワカ葉)色で葉の形が良いと言うので、【MR 浦ノ崎駅・桜祭】の次世代の桜に成って欲しい願望を込め、4年前に浦ノ崎駅前入り口の南北に、二本の苗木を植えさせて貰いました。そして此の苗木に今年は花が咲くと言う事を故郷の姉に訊き、今年の桜祭りを見に帰郷しました…

 

★浦之崎の名所としては、宇宙の小惑星の名前「サヨヒメと命名された【佐代姫・塚】の存在です。それは、6世紀(先史)の時として、大伴狭出彦による任那への征船(宣化2年・AD537年に設置)に関連します。その【佐代姫・塚】設置場所は、浦ノ崎駅の真西に位置する【社会保険・浦之崎病院】の中庭です。そして佐代姫神社も病院の直ぐ西側に建立されていて「日本三大・悲恋物語」の一つとされています。又、歴史的遺跡としては「伊万里市・浦ノ崎佐代姫神社の社宝である高麗壷」(新羅・壺が正しい)です。その壷の由来は、大伴狭出彦が任那へ赴く征船(宣化2年・537年)を小舟で追い、力尽きて死んだ佐代姫塚に、大伴狭出彦が任那から帰って直ぐ訪れた時に持ってきた壺だった。

…つまり、歌人の山上憶良が大伴宿禰旅人の筑紫太宰府に下る事を知って作成した「佐用比米の歌」(佐用姫の歌/原文は724年に作成された)や、又、確たる歴史的資料が無い時代に於いて、尚、政府との直接的な関わり等も殆ど無い片田舎の浦ノ崎(佐賀県伊万里市山代町立岩 浦ノ崎)の住民が、現在に言う【浦ノ崎・佐代姫塚】を作成した当時の出来事だけを、単に継承し続け現在迄も祭り事を行って来た歴史的史実は、後年の万葉集に起因して成る唐津の「佐用姫伝承」とは一線を画すものであり、その意味する処は、【伊万里・佐代姫伝承】こそが、日本史に於ける最古の歴史的伝承に値します。

 

①『万葉集』(第868番歌)…「 マツラガタ、サヨヒメノコガ、 ヒレフリシ、 ヤマノナノミヤ、キキツツヲラム」(5・7調の定型詩・31文字歌)。

 

②『万葉集』(第871番歌)…「トホツヒト、 マツラサヨヒメ、 ツマゴヒニ、 ヒレフリシヨリ、 オヘルヤマノナ」(5・7調の定型詩・31文字和歌)。

 

…因みに、此の歌に続く歌4首(省略す → 第872番歌~第875番歌)も定型として設定されています。

 

…以上の『万葉仮名』で記述されたマツラ表記が現在用いられている「松浦」の「モンゴン・モンジ」(文言文字)であり、語元であった。

 

 

……(ランキング)↓ ↓ ↓ ←  (クリック)…宜しく…

      にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 八尾情報へ
         にほんブログ村