聖徳太子が整えた「万世一系史」 | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

 聖徳太子が整えた「万世一系史」(追記)

 

…聖徳太子(厩戸皇子)が整えた【万世一系史】の基礎 。それは、カミ代文字(ホツマ文字)文書に起因します。

 

★ 聖徳太子(厩戸(ウマヤド)皇子)が整えた【万世一系史】の基礎 。それは、カミ代文字(ホツマ文字)文書(秀真伝(ホツマツタヱ)&三笠文(ミカサフミ))に起因します。その日本最高神とするカミ名(上(カミ)/神の意ではありません)【天照大神】を最初に祭った【タコチ】竹渕/大阪府八尾市竹渕に建立)の語意(千(チ)=完成)を用い、日本国家の創建政策(ヤマト言語と日の本思想の統一政策)に向けたミコトノリ(詔)が発令(紀元前3年時)され、ヤマト国家が創建されました。その【ホツマ・文字】書体を用い「フトマニ」と記された文書が伊万里市楠久の【本光寺】(聖徳太子に始まる飛鳥時代頃=592年~710年迄の文書とされる)に保存されていました。それは日本最古に於けるカミ代文字の保存場所と言う事に成ります。

 

… 【ホツマ・文言文字】(カミ代文字)本体を用い「フトマニ」と称す文字が佐賀県伊万里市楠久の【本光寺】古文書(聖徳太子に始まる飛鳥時代=592年~710年頃の文書)として保存されています。その意味する処は、日本最古のカミ代文字の保存場所(伊万里市楠久)で在ると共に【カミ代文字】の存在事態(伊万里市楠久の他、伊勢神宮にも多くのカミ代文字が保存されています)が意味する事は、我が国に固有文字が無かったと欺き戦後(昭和20年=1945年)の【GHQ】(連合国・占領軍)が発令した「神道指令」を迎合して成るそれ迄の…「日本歴史教育を否定する教育方針」…を完全に打ち破る事をも意味します。

 平成31年4月30日は平成最後の年に於ける「譲位の日」で、皇紀「2679年4月30日・火曜」に当たります。それは、聖徳太子(厩戸皇子)が整えた「万世一系史」によって今年も皇暦(皇紀)年が「神武天皇紀元/サナト=辛酉(カノトトリ)」年を紀元年として歴年、及び元号(平成)が刻み込まれてきました。然し、厩戸皇子が太子(推古女帝/593年即位)になる以前の皇歴(暦)年史は、「仲哀天皇・紀元史」年であって「神武天皇・紀元史」年には繋げられていませんでした。

 では、どうして「万世一系史」として設定する事が出来たのかと言えば、それは、それ迄隠されていた春日文書(三笠文)と大物主文書(秀真伝)と呼ぶカミ代文字文書の存在、及び、その文書の隠し場所を問い詰め、春日氏(三笠文)と三輪氏(秀真伝)の文書を提出させ、漢字に変換しての「万世一系史」とする『先代匶事本紀大成經』(センダイクジホンキタイセイキョウ)と題する「72巻本」(日本書紀の元典)を完成させたからでした。然し、その漢字による編纂文書の完成(推古女帝30年の時)前年に、聖徳太子は薨(コウ)じられました。

 その後年(元正女帝・養老年間)に日本国の正史としての歴史書が編纂されるに当たり、『先代匶事本紀大成經』の年代紀に繋げられていた推古天皇(豊御食炊屋姫/トヨミケカシキヤヒメ・蘇我稲目の女子系の女帝)紀に、持統女帝迄(697年時に文武天皇に譲位されました)の年代史が接続され、国書【日本紀】(ニホンギ)完成(養老四年=720年奏上)し時の天皇【第44代・元正女帝】(AD715~724年)に奏上され、以後、皇歴年は現在までも続いています…

 ちなみに、元号は、【継体】称号(丁酉/ヒノトトリ=AD517年/継体とは元号の名称であった)から始まりました。それは【二中歴」(ニチュウレキ)や、又、【如是院年代記】(ニョゼインネンダイキ)に在っては、正新町(オオギマチ)天皇(元亀・元年=AD1570年)迄も記載し続けられていて、尚、その後も、今日の新元号【令和】(元年/5月1日・水曜)が施行されるに当たり、旧元号【平成】に繋げられました。

     写真の説明はありません。

 

追記】(平成最後の31年=2019/05/01・水曜)以上

日本国家の夜明け前」地域

佐賀県伊万里市「西尾遺跡」等から【素焼・大型甕棺】(口径約70㌢・高約105㌢)が出土(弥生中期=紀元前2世紀〜紀元1世紀頃)している…

市指定重要文化財 考古資料
銅戈 &  初期甕棺墓群出土地
歴史 民俗資料館(伊万里駅より徒歩15分)
昭和48年=1973・7月20日指定
銅戈(紀元前1600年頃~紀元前1046年/殷時代の武器)

 

 写真の説明はありません。


…この銅戈は、昭和27年=1952・7月初旬、黒川町奥野地区の旧黒川中学校の運動場拡張工事の際、水田の下から出土したものです。
 

…戈(か)は、古代中国の殷時代(紀元前1600年頃~紀元前1046年)中期に出現し、戦国時代にさかんに用いられました。両刃の刃物を柄の先端に直角に取り付けた武器です。馬でひく戦車に乗った敵をひっかけて引きずり落としたり、敵を刺したりするのに威力を発揮しました。
…旧黒川中学校で見つかった銅戈は、青銅製で2点あります。1点は基部に刻印があり、全長19.8cmです。もう1点は基部を欠失していますが、現存の全長で18.9cmです。ともに殷時代後期のものと考えられ、銅質は良好です。
 

…この銅戈が見つかった付近は土井頭(どいがしら)遺跡といって、弥生時代中期中頃(B.C.100年頃)の甕棺墓(かめかんぼ)群が見つかっていますが、銅戈が製作された年代とは時代が合わず、銅戈の伝来についての解明が今後の課題です。
 

…「全国的に見ても類例のない遺物」であり、本市(佐賀県伊万里市)の歴史を考える上で貴重な遺物です。
 

 

※【注】(全国的に見ても類例のない遺物=殷時代の銅戈と初期的甕棺墓群の出土状況)!!

 

… 此処で最も重要な事は「弥生時代中期中頃(B.C.100年頃)の甕棺墓群」(日本列島の初期的甕棺墓期)の出土です。つまり、ヤマト国家の誕生は、始めから国家大系組織の構築目的を持って紀元前2世紀の終頃、地中海沿岸文化圏の先進技術を有す地域から、此の極東の島へ移動して来た【ダマスコ契約・秘儀宗団】(東呉/会稽付近から「海の民」と合流)によって始まりました。その先発隊の最初の居住地として住み着いた場所が、此の伊万里市の黒川地域(他・二里町等…初期的甕棺墓群出土地)であり、又、その海路航路を開拓した「海の民」(古代北イスラエルのサマリア系民族?)が、後に言う「松浦党」のルーツと考えられます。その証拠的文献資料としては、『前漢書』(地理志・紀元前2世紀終わり頃の文書)です。その文書によると倭人の記録ありとして…「武帝は楽浪郡(紀元前108年)の衛氏を滅ぼし朝鮮半島を直轄地とし、楽浪等4郡を置く」と在り、又「此の頃、海の彼方に【倭人】が住み、百余国からなり、季節の節目には朝献に来る」…等と書かれています。

 

…「下記/新たな元号発表の日」(平成元号最後の31年=2019/04/01・月曜)に、伊万里の帰郷先から発信)…

…「佐賀県の語元」(語源の意ではありません)は豊玉姫に関連する…

 

★「伊万里(佐賀県)から発信」(佐賀県のサカの語元に付いて)。日本語の元点であるヤマト言葉の「カミ」とは、「基本的・自分より上方の意」を言い表す言葉であった。従って漢字の「神」として当て字されたのは間違っています。敢えて漢字で当て字するならば「上」(ウエ)の語意の方が適切です。ちなみに、日本最大の大型甕棺墓は佐賀県の【姫方遺跡】(佐賀県三養基郡みやき町簑原/吉野ヶ里遺跡の少し東側)とされています。その甕(カメ)の語元は、三輪氏族の大物主の役職であったクシミカタマ(櫛甕玉)の御名に関連し、その「カメ」(甕)とは、「カミ(God)に近づく乗物意として用いられました。従って、「天のミカ(甕)に斎(い)み籠(こも)りて」(祝詞・出雲国造神賀詞/出典・小学館デジタル大辞泉)と言う祝詞文言が残されています。

 

…甕(カメ=イオニア式文字配列数値・22)の語意は、元初的ヤマト言葉に言う【カミ】(秘儀数値・58)の乗物(22+58=80/千木の語根数値)を意味する言語であった。従って、日本カミ代物語中の「海幸彦と山幸彦」物語に於ける山幸彦(後の彦火々出見尊)の乗物として設定されました。ちなみに、此のカミ代時代の時は瓊々杵尊(山幸彦の父)が権力者としての地位を有していて九州全体の国造の為に九州で活躍していたとされている。それで、山幸彦が海幸彦の釣り針を失って困っていた時、塩土の翁(東北/鹿島地域を含む宮城県地域を本拠地としていた)が【カメ・船】を用意し、失った釣り針探しとして敦賀付近(滋賀県大津を本拠地とする)から【カメ船】(ホツマツタヱ・文書)に乗せ、杵島(佐賀県/有明海側)付近の佐嘉川河口の処へ連れて行き、失った釣り針を探し出しました。つまり、その佐嘉川近くの豪族の館に居た賢しい女性(アカメ)が釣り針を探し出してくれました。又、その女性(アカメ)は、】(六芒星=タビデ紋の秘密を知っていた事にちなみ、【ヨト姫】(與止日女)の名が与えられた。そして、その「ヨト姫」(サカシメ=賢女)を祭った神社が【ヨト姫神社】であり、此の神社は佐賀県付近に集中して建てられています。ちなみに、此の「賢し」(賢い)の語意が現在に言う佐賀県の語元であった。

 

…「佐賀県」の語元に付いて…

…日本国家の初代国王とする「神武天皇」の御名は…「カンよりに名も、カンヤマト、いはわれひこの、あまきみと、あまねくふれて」(ホツマ・ホ29章)と記す文言にある。つまり、【カン】とは、【カミ】(秘儀数値58を語元とする)の意と同義語であって、それは、初代天神武皇の即位年を「倭暦=アスズ暦58年」の時として意図的に設定していた事を物語ります。そして、「カン(カミ=58)やまと、イハワレ(祝はれ)彦」の呼称を漢字表記したのが「神武天皇」(音読み/ジンムテンノウ)である。
 

★神武天皇の父ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトの、その又父であるニニキネ尊の后トヨタマ姫は、佐嘉川(佐賀県)地域の出身でした。ちなみに、佐賀県の語元は、ミヲヤアマキミ(ウガヤフキアエズノミコト)のミコトノリ(詔)である「人草のミケ(食)繁る故、生まれ賢しく」と言う文言に起因します~

 

…佐賀県の県名は県庁所在地の名称(サカ川)に由来し、この地名は古代から郡名として用いられ、『肥前風土記』(天平4年・732年~天平12年・740年完成)の「佐嘉/サカ」(日本書紀/景行天皇18年4月夏の条=ホツマ・38章)。つまり、楠の栄え(ミケ/御饌・御食)説が有力とされている。然し、その『日本書紀』景行天皇紀の内容は、カミ名文字文書「ホツマ&ミカサ・文書」を厩戸皇子(聖徳太子)が漢字訳を以て編纂させた『先代匶事本紀大成經』(72巻本/佐賀県生まれの潮音道海 等による写本を以て出版~寛文10年=1670年に此の本が発見された)中の【旧事紀】(神皇本紀1~6=神武天皇~神功皇后紀迄/帝皇本紀1~6=繼體天皇~推古女帝36年迄)に取り込まれた記述文書の内容であった。要訳すれば、「佐賀県」の語元は、神武天皇の父の又父(カミ世11代目・彦火々出見尊)の后とするトヨタマ姫の出身地(佐賀県の佐嘉川地域&杵島地域等)に関連する。つまり、「カミ時代12代目・ウガヤフキアエズ尊」によるミコトノリ(詔)として…「人草(ヒトクサ)のミケ(食)繁る故、生まれ賢しく」(ホツマ・27章)と言う文言に起因します~ 

 

★日本国家成立年( 幻の西暦1年目・辛酉/古代ユダヤ民族の地域クムランを襲った巨大地震発生年から31年目に当る)に於いて初代天皇と定義する神武天皇の父の又父(カミの時代11代目・彦火々出見尊)の后となったトヨタマ姫の出身地は、現在の佐賀県にある「佐嘉(サカ)川」地域(山幸彦彦が失った釣り針発見地域)でした。つまり、佐賀県の「サガ」の語元としての有力説に言う「木が茂る」等の根元由来を溯れば、トヨタマ姫の子供であるウガヤフキアエズ尊による詔(ミコトノリ)に言う~「我つらつらと、おも(思)みれは、ヒトクサ(人草)のミケ(食/御饌)繁る故、生まれサカ(賢)しく~」(ホツマ・27章)と記述された【もんごんもんじ】(文言・文字)に起因します。

 

★♒️ 【大型・甕棺墓】…「日本最大の大型甕棺墓」(佐賀県伊万里市からも発見)は、佐賀県の姫方遺跡」(佐賀県三養基郡みやき町簑原/吉野ヶ里の少し東側)とされています。その「カメ」(甕/壷形式で口が広い容器)の語意は、少し大きい船(山幸彦の乗物/浦島太郎の乗物とする亀にも関連する/ワニ船も在ったとされる)の呼称としても用いられていました。ちなみに、その「カメ」の語意は、カミ(上/God)との【接近法数値・58】(カミ時代は1世紀始め頃~4世紀中頃を時代背景とする)に関連付けられていて、神武天皇の即位年も予め設定されていた暫定暦(ア鈴・コヨミ)の「58年目」(辛酉/幻の西暦1年目)の時として設定されました。此の暫定暦(鈴木暦)による設定方式によって、現在の皇歴年が「紀元前・660年」(サコクシロ/接近法・数値年)として過去年へと引き伸ばされる原因に成っています。

 

★前回(平成元号最後に当る/平成31年=2019/04/01・日曜)も同じような記事を書きましたが、その時は【浦ノ崎駅・桜まつり】(先月/平成31年3月31日・日曜)に合わせ帰郷する時、歴史的資料を持参していなかったので歴史的年代を記載する事が出来ませんでした。それで、今回は歴年数値を織り込んで投稿した次第です…

 

★佐賀県伊万里山代町「楠久」(クスク)の地から【大発見】(ヤマト言葉の日本固有文字・【フトマニ・文字】が保存されていました)~

 

…昨日(平成最後の31年=2019/04/04・水曜)、「癒しの隠れ屋・お寺カフェ壹之寺茶房」佐賀県伊万里市山代町楠久360)へ行ってきました。その元住職のお寺「本光寺」創建当時(飛鳥時代/592年~710年迄・飛鳥に宮都が置かれた崇峻天皇5年~和銅3年迄の118年間を指す)の文書中に、その日本固有文字(ホツマ文字)で書かれた文面が保存されているとの事でした。その寺が存在する地域はカッパのミイラ保存地域としても有名な処です。又、その地域も絶滅危惧種に指定されている「塩生植物」(ハマボウの花の木)の群生地域だったとの事でした…

 

★下の画像は、佐賀県伊万里湾の山代町海岸に現在も自生している「ハマボウ」(黄槿)の花」の木です。尚、此の「ハマボウの花」は、【佳子様のお印】とされている沖縄の「ユウナ」(オオハマボウ/大黄槿)の花と同種です…

 

                   

 

下記に【追記】(2019/04/24・水曜)

 

★【マツラ=松浦の語元】&【メズラの語元】。「メズラ」とは、カミ(テオス=ΙΑΩ=八尾市の語元と成る)の語元に関連する言語であった 。

 

…現在の漢字大系(説文解字/偏旁冠脚)は許慎が安帝の建光元年(AD121年)に奏上し成立させた漢字大系です。それ以前は秦時代以降による【篆書】や【隷書】(草書体)が使用されていました。従って、日本人を意味する言語の初出である『前漢書』地理志(紀元前2世紀末/日本の北九州地域で行われた甕棺墓方式初期時代)に記載されたとされる「倭」の表記は、後漢時代の2世紀以降の編輯言語文字であり、日本人に対する正確的な文字表記ではありません。

 

★日本史の【元号】(今年は新元号施行年)起元(継体11年=AD507年・丁酉/ΙΑΩ=八尾市の語元数値507が幻の西暦年として取り込まれている/継体表記は天皇名ではなく元号名であった)は、聖徳太子が整えた偉業「万世一系史」(仲哀天皇紀の設定)に起因します。

 

何故、聖徳太子(厩戸皇)は隋へ使いを派遣したのか!!

 

…「日本書紀/第一回・遣隋使派遣」時(推古女帝・8年/聖徳太子27歳時=AD600年)の隋国では、つまり、隋書の「音楽志」によると、【七部音楽】(現在に言う…クチャ・インド・カンボジア・サマルカンド等の西域の伎楽を含む音楽部)が隋国初期に於いて既に設立されていました。ちなみに、遣隋使の派遣回数は「隋書①回目・600年」。「隋書②回目&日本書紀①回目・607年」。「日本書紀②回目・608年」。「隋書③回目・610年」。「日本書紀③回目・614年」とされ、推古女帝時代に於いて合計4回と成っています。

 

…厩戸皇子は推古女帝期に太子に成った時から隋(長安は隋・唐の都/現在の陝西省西安市に当る)より、更なる西域(シルクロード経路・文化)に関心を持っていました。従って、第2回目(日本書紀では初回に当る)遣隋使に持たせた文書には…
 

…「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」…
 

…等と言う文書が書かれ、それは既に厩戸皇子は飛鳥(アスカ/オシホミミの嫡男ホノアカリ尊の天降御座地)の語元(Assu/トルコの西部に当たる… アス=東・日ノ出の意)を知っていた事が考えられます。だから、それ迄(推古天皇時代以前期)、ズーット隠されていた【日本建国創建史・文書】(ホツマ/ミカサ文書)を聖徳太子は捜し出し、「神功皇后・紀」文面(先代匶事本紀大成經)として、佐賀県松浦(末盧国)の玉島の小川で、「細い鱗の魚を釣り【メズラ】(魚釣神事)と仰せられた」等と言う文言部分を挿入したのでした。その【メズラ】とは、ゲマトリア数値言語(文字&数値転換解読方式)であって、西域(地中海沿岸文化)のカミ(テオス & ΙΑΩ=八尾の語元文字)を示唆する「モンゴン文字」であった。

 

…ちなみに、その【魚釣神事】に言う【メズラ】に関連する地域名【マツラ】(松浦党の本拠地)の語元は「テオス=ΙΑΩ」の大祭司である八尾のアラヒト宗団トップグループの渡航移動を「待つ=松」(教育の意を含む)と言う語意が語元であり、又、その「マツ=松」の語意は、【サマリア系・海の民】(紅海~東シナ海等を経て日本への渡航を受け持っていた海洋運行技術者達)を示唆する文言でもありました。然し、その事を知っていた聖徳太子(八耳王)は漢字表記で編纂し直した『先代匶事本紀大成經』(推古天皇・迄/72巻本)の完成頃(AD621年)に薨去(コウキョ)された為、多くの謎が残されたまま現在に至っていました。だが、その謎解きのキーワードは「マツラ」の語元に在る事を、今年の佐賀県伊万里市【MR 浦ノ崎駅・桜祭】に帰郷した折り、伊万里市の【甕棺墓遺跡】内容(殷の銅戈の存在/伊万里市で出土)を知った事により、此の説を纏める事が出来ました…

 

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