『日本建国史』より | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

… 

http://erusaremu464.blog.fc2.com/blog-entry-2.html  FC2ブログURLドラッグして検索)…此の「FC2ブログ・URL」のブログ記事は、最終的な纏めとして書いて行こうと思っています。

…此れ迄は、『日本建国史』を念頭に、当「Amebaブログ」を以て、色々なテーマを授けながら、約4年間程
書いていました。そして、最近は、纏めの一貫として、尚、先ずは其の纏めの序章的な意味合いを込めた内容を以て書いていこうと思いました。然し、「Amebaブログ」は、ブログの文字数に限定(4000文字迄)が在り、長文が無理な為、最終的な纏めの部分は、「FC2・ブログ」に書いて行く所存で在ります。

…今から約5年前から当「Amebaブログ」に記事を投稿した当時は、『秀真伝』(姉妹書・三笠文)文書の、其の内容の紹介的な書き方からスタートしました。そして、『秀真伝』(姉妹書・三笠文)文書は、『現存・日本書記』(刪定書的偽書)以前の文書で在る意味を中心に、尚、此の『秀真伝』文書の研究に辿り着く過程等をも交えて書いてきましたが、最近、最終的段階を考える事が多くなり、其の「最終的内容を書き残して置かなければならない」と言う結論に達しました。

…此の、「Amebaブログ」は、文字数に限定が在り、「途中で文章が保存できなくなる事」が多々在りました。従って、「最終的内容の記事」は、別ブログを以て書こうと思っている次第です。

…当、アメーバブログのテーマ 『ハマボウ(黄槿)の花の下で』と題するブログ記事内容は、私の幼年期から、成人後の『秀真伝』(姉妹書・三笠文)文書の研究段階迄の事を中心にするも、『秀真伝』文書の記事内容の事は出来るだけ省いて書いています。

…以下【追記】…「FC2ブログ追記文」…『日本建国史』( http://erusaremu464.blog.fc2.com/blog-entry-1.html   FC2ブログURL・ドラッグして検索

…此処に言う『日本建国史』とは、「ヒノモト(日之本)・思想」の定着化の段階を意味し、其の「ヒノモト」とは、『秀真伝』(姉妹書・三笠文)文書に記述されている処の秘儀数値言語(ヒ・フ・ミ・ヨ…の数値言語は物部文書に取り込まれている)に起因する造語(名称)と言う事に成る。然るに、卑弥呼(1・3・9)とは、其の数値言語を用いての呼称(名称)だったと考えれば、此の卑弥呼の時代後漢書・霊帝年間の光和2年…2世紀頃は、未だ『日之本思想・建国史』の時代だったと言う事に成るが、其れは、ヒエラルキー的な国家体制が確立された中に於いての思想固め期間中だったと考えられる。然るに、後の世(近年)に公開された【物部文書】を以て、此の…「ヒ・フ・ミ・ヨ…の秘儀数値言語入り祝詞」…が、一般の人達の間にも知れ渡る事となる。

…島根県の【大神楽…八岐大蛇】(2013/11/24)…此の大神楽見学後(夜8時頃)、其の山手に位置する物部神社にて恒例の【物部・鎮魂祭】に参加(地元の知人に招待され)させて頂きました。此の鎮魂神事に於ける祝詞に記述されている文面(下記に記す)と殆ど同じで在りました。

…「イタムコト、アラバ ヒフミヨヰムナヤコ1 2 3 4 5 6 7 8 9 )マデカゾエテ、フルエタダ、ユラユラフルエ、カクナセバ、スデニマカルモ、ヨミカエル、フルノコトゾト、ミコトノリ」(5・7調言語『秀真伝』文書・第20章)…「アメミマゴ トクサ(10種)エルアヤ」より抜粋す。

…元始倭語(ヤマトコトバ)に言う【クニ】(邦…国)の語意は、漢字の字元(源)言語、即ち、「国」(コク)、及び「邦」(ホウ)の字源言語の語意には当て嵌まりません。然るに、「元始・ヤマトコトバ」の【クニ】の語意に対し、敢えて漢字の字源を以て当て嵌めるとすれば、「邦」(音読・ホウ)の字源(漢字の場合はで在る)に近いが、本質的には全く当て嵌まりません。

…以下【追記】(平成27年・2015/09/05/土曜)…倭語【クニ】の語元、及び其の語意は「ムツ」(秘儀数値言語)で在る

…そもそも【倭人】と言う、其の名称(呼称)の始まりは、「紀元前1世紀の倭人伝」に起因する。つまり…「今(西暦82年)の使訳所が言うには30国で在る」(前漢・地理志)と記す処に遡る必要が在る。つまり、「幻の西暦1年」(天鈴暦の暫定歴年起点神武天皇即位1年目)以降に於ける「ヤマト民族」の各々の国の人達は、前漢時代から続いていた交易的接触を続けていた。従って、海の東(現在に言う九州地域)の方極南界)から来た人達に対して「前漢人(武帝~平帝迄)の人達」は、「倭人と言う認識」(大陸の倭種族と似ていた)を持続して持っていた思われる。それで、其の後の後漢時代に於いても、東からの朝賀に在っては、つまり、建武中元二年(57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」(漢委奴國王】・金印…志賀島出土と言う記述の如く…「…委の奴國」(漢 委奴國王)…とも読める国称を刻印しての金印が贈られたので在った。つまり「倭人」とは、前漢期に用いられた用語(倭種・民族)の意がが引き継がれて用いられていたので在る。此の事の証明とするのが、武帝元封2年(109年)下賜【滇(テン)王之印】(蛇紐印)」の出土(発見)で在り、此の印と志賀島から発見された印は、同等的に対応する。

漢委奴國王】に言う、【奴國王】とは、其の昔、「志賀島」(博多)近辺を統治していた【奴國】(ヤマト式・カバラ数秘術に起因する国名で在るに与えられた金印を意味していて、此の「シキシマ」(敷島)全体を統括していた【ヤマト・クニ】(ムツ)の王に贈られたものでは無かった。従って、此の金印は、我が【ヤマト・クニ】には必要が無く、放棄(廃棄)されていたので在る

…然るに、漢書に記す
「倭國」とは、「ヤマト民族」の人達が自ら発した国称ではありません。「ギリシア」(国名)然り、此の国の人達も、自国に対し、自ら「ギリシア」(国名)等とは言っていない。

…我が国に於ける各々の小国は、それぞれに邦名を持っていて、其の各々の邦名を有す小国を総括した「ミオヤカミ」の【クニ】の呼称(名称)は、「ムツクニ」(陸奥)で在った。然して、創作文書(秀真伝・三笠文)に於いては…《「シキシマ」(敷島)の「ホツマクニ」(袍圖莾句儞)》…と自称し、其の旨を、『秀真伝』(姉妹書・三笠文)を以て明記している。

…何故、【】(国称)が、
建武中元二年】(57年) の年に奉貢・朝賀】を行ったのかと言えば、「タケヒト(後に言う神武天皇)の在位31年条に記述されている処の国見の義に於ける秘儀数値」に関連するので在った。つまり、此の奉貢・朝賀】の義を敢行した事に因って、『死海(遺跡)・文書』に訳されている処の「幻を書き記せ」的、創作文書の作成に着手したと考えられる。然して、「何故・幻の西暦57年目」(建武二年)を、【朝賀】の義として選んだのかと言う事を知る事が、此のブログの標題としている『日本建国史』を知る上に於いて、最も重要な事と成る。

…以下【追記】
建武中元二年】(57年が、何故、「幻の西暦1年目」で在る事を「元始・ヤマト民族」の人達が知っていたのか」と言えば、其の、現在に言う西暦1年目に当る年代(ローマ皇帝アウグストゥス・在位28年目?)に対し、【メシア来臨起点年】として設定していたのは、此の、「元始・ヤマト民族」だったからで在る。

…『秀真伝』(姉妹書・三笠文)文書が書かれた理由の1つは、此の、「幻の西暦1年目の定義付け」の為で在った。然して、其の最大的理由付けとしては、「ユダヤ教のテーゼ(命題)」の問題で在る。然し、此の件に関しては、以前のブログで記述済みなので此処での説明は省きます。

「幻の西暦1年目の定義付け」が完了した結果、【式年遷宮の義】(20年に1度)が設定された。此の謎解きの鍵は、『太神宮諸雑事記第一』に在る。そして其の【式年遷宮】に於いての最大なる節目とされたのは「12回目間隔年」の時だった。然るに【卑弥】とは、此の【式年遷宮】に於ける歳事を以て、此の極東の島に於ける最高神、即ち、【天照大神】を誕生された人物で在る。此処の処を題材として書かれたのが『秀真伝』の「ユリヒメに関する記述内容」で在る。

…此の続きは後日と致します。


… ← 此処(ランキング・クリック)宜しく…