【初期・ヤマト民族】の活動拠点であった【伊万里富士・腰岳】地域… | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

 

 

佐賀県の伊万里地域は【初期・ヤマト民族】の活動拠点であった…

2015年 05月25日 10:48(全員に公開)

【逸書・三笠文】(秀真伝の姉妹書)に、【脱ユダヤ教・秘儀教義宗団】の人達が極東の日本列島へ移動して来た意の隠語が記載されている(詳細は次の矢印をクリックの事
⇒ http://ln.is/ameblo.jp/erusaremu4/9VJyq …

…『日本神話』とは【ノアの洪水年】創世記、【神武天皇・即位1年目】(辛酉年)の歴年数値を接続させる為に、【秘儀数値】(ゲマトリア)と【完全数】を折り込み、 創作された物語で在りました。

…石器時代に始まる【腰岳】(伊万里富士)の【黒曜石】。そして、後年に於ける伊万里地域の【甕棺墓】遺跡。此の双方の分布図を考察すれば、【初期的・大型甕棺墓】(伊万里市からも発掘されている)の分布図と重なる部分が在ります。然して、古語に言う【カモ】(鴨)と【カメ】(亀)の語意は、船の大きさや早さを意味する用語でも在りました。従って、【甕(カメ)棺墓】埋葬の発想は、「亡骸に起因する魂」を、【亀船】(甕船)を以て「天へ送る発想」(古代エジプト文明起元)に行き着いたと考えられる。因みに、古代エジプトのピラミツト近辺からは、当時の国王の墓が発掘され、「死後に於ける天への乗り物」としての【大型船】の部品が、組み立て方式部品として埋葬されていた事が解っています。従って、我が国の遥か西域に位置する古代エジプト文化との交流が、我が国の先史時代(律令期以前)に在ったのかと言う謎解きに至り、結果、【三笠文】文書の「タカマナルアヤ」(高天成綾)の文面に行き着いた次第で在ります。

…古代期に於ける日本列島の地形を考え、又、其の当時の交通手段を考察すれば、日本海流域(西九州・山陰等の地域)が、我が国の表玄関に位置していた。然して、日本列島方面から朝鮮半島へ出て行くには、海流、及び、偏西風等との風向きを計算する必要が在る。然し、古代期の我が国に於いて、其のような航海術が養われたと成す記録は皆無在る。然して、神功皇后の朝鮮半島への渡航準備は、予め、予定していたかの如く順調に、其の準備が行われていた事が伺いしれる。其の戦の準備の過程で、「ワイタメサダム」(秩序と訳されている)と『現存・日本書記』に記述されている処の、此のワイタメの語意が、其の「古代エジプト文化」に結び付く言語(単語)で在りました。

…以下【追記】(平成27年5月27日・水曜)します…四季の天候等。そして、海流の流れを計算しての大型、及び、小型船然り、其の航海に於ける渡航術(潮の流れや風向等の予測術)は、太古の昔(トロイ戦争頃)から、地中海沿岸文化圏に於けるギリシア人、及び、海の民の人達は、其の術を経験から学んでいた。然して、我が国(元始ヤマト国)に於ける弥生期以前(縄文期)、それらの渡航(航海)術を用いて、ユーラシア大陸等へ赴いた経緯を示す文献的証拠は見つかっていません。然し、【腰岳】(伊万里富士近辺の【黒曜石】が、朝鮮半島から発見されている事を考察すれば、西北九州地域(佐賀・長崎県)の古代の人達が、意図的に朝鮮半島へ行き来していた史実を物語るもであります。

…因みに【腰岳産出・黒曜石】(品質が良い)の分布図を見ますと、九州全体は勿論の事、南は沖縄。東は、四国、近畿地域迄にも及んでいました。此れは何を物語るのかと言えば、渡航術を身に付けていた海の民、及び、前2世紀始め頃に於いて、予言者エゼキエルの忠告(悔い改め)を全うした【クムラン・秘儀宗団】の或る一隊(旧約外典・第4エズラ記)が、【太陽の町・建国思想】前133~132年…ベルガモンのアリストニコスが樹立)に感化され、東方へと船で旅立った事が考えられます。然るに、此処に言う、「地中海沿岸文化圏から極東の島(日本列島)に移動したとする文献資料と致しましては、【三笠文・第6章】(秀真伝の姉妹書)に記載されている隠語的文面が其れに当たります。因みに「ヒノメグリ、ナカフシノトノ、アカキミチ(赤道)…クニタマワタリ(国霊渡り)、ヒノメグリ」(隠語等と記す部分で在ります。尚、近隣国の文献に照らし合わせれば、『前漢書』の「地理志・倭人伝」の部分は、『秀真伝』の「神話・ニニキネ条」が当て嵌まります。(下記↓↓↓・地理志を参照の事)。

「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」(地理志Google…Wikipedia・記事からの抜粋

…其の後年(紀元後・1世紀)…班固が編輯した『後漢書…巻八五・倭』(
A,D82…92年に班固獄死)に因ると、倭人が「通訳」を連れた使者を、漢(後漢)の国に通わせたのは30国各々が王と言い、其の系統を伝えた)」等と記している。


…然るに漢(後漢)に通わせた30国…等と記す記述部分は、『秀真伝・25章』神話・瓊々杵尊)の条に記述されている部分と一致する。然るに…古来より30国・新に32国を豊国、筑紫に造る等記されて処で在る。

…然して、通訳を通わせた」…と言う部分は、『秀真伝・34章』崇神58~62年条)の記述を考察すれば、『三国志…巻三十・倭』(景初二年・倭国では景初三・239年と記す)の記述部分。そして、『巻四魏書・齐(セイ)王芳』(249年)に記述されている処です。つまり、臣松と記されている人物が、【通訳・職】をも兼ねていたと思われる。然るに、「魏・正始元年」(240年…斉王)から8年目(247年・卑弥呼…罷る)頃の事として、魏略に因れば、天竺方面からは月氏、他、西王母伝説地域の方から等としては、其れは、多くの国の使いが、魏の国へ来ている事が記されている。又、海路を経ては、【大秦】(ローマ)の使いも来ていた。因みに、此の『三国志』(魏略の東夷伝・編輯者…陳寿?280~289頃成立)の時代に在っては、何故か、「注解者的・臣松」臣松之案…伝々等)の記述が出て来る。然るに、筆者が思うには、『後漢書』(巻一・光武帝紀第一下…中元2年条西暦57年)の時として…「後漢の光武帝(首都・南陽)に、倭人が朝見(57年)している。そして、其の後年(安帝永初元年107年)の時として…「倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」(范嘩著『後漢書』巻八十五・東夷伝第七十五)等と言う事が書かれていて、其の、生口とは、「特殊技術者達」(西域に通じた通訳職等)だったと考えられるのだ。つまり、「卑弥呼の朝見時の生口」の数は、「男4人・女6人」で在り、其の人達が肉体労働者達だと考えれば、極端に生口の数としては少な過ぎるからで在る。然るに、「1世紀頃の倭国が、通訳を通わせた」とする、其の当時の【通訳・職】の技術としては特殊な職種で在り、最低でも漢字を読める人でなければ務まりません。従って、海を隔てた倭国に在りながら、他国の文字を読み書きし、通訳が出来る人達と言えば、古代から交易に長けた民族とされている、【古代・ユダヤ民族】の人達だったと私は考えています。

…此処の標題に掲げている【腰岳】(
伊万里富士)近辺の【黒曜石】の分布が、南は沖縄。東は四国、近畿と言う事は、海の民に因る航海技術(前2~1世紀頃)が、先ず、西北九州一帯に広まったと考えられる。此れが、後に言う松浦の水軍(神功皇后の新羅討伐)の話として付け加えられたので在る。然して、其の神功(ジングウコウゴウ)の話は、新羅(秦羅)が建国した頃の「任那・成立」の話(角が在る人の来朝)で在り、史実的には、3~4世紀頃(崇神紀・アメノヒボコの帰化)の話だと考えられる。

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