【MR浦ノ崎駅・桜祭り】(佐賀県伊万里市山代町立岩 ) | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

…【松浦郡】(佐賀県)は、蒙古軍を追い返した「松浦水軍の本拠地」で在りました。

…佐賀県伊万里市に位置する【松浦線(MR)・浦ノ崎駅】停車場周辺の桜の木は、其の植樹から70年程の経過を経て、今は大きく成長しています。


…現在(平成27年)、桜の季節頃、電車が此の【浦ノ崎駅】に停車すると、其の停車位置は【桜のトンネル】の中にあるような雰囲気に包まれます。

…此の伊万里市(佐賀県)の地域は、其の昔(廃藩置県)、一度は【伊万里県】と成った事も在る程の賑わいぶりをみせていました。そして、子供達も多く、学校の教室は「10組~11組」程にも至った事も在りました。然し、時代の流れと共に、此の山代町地域に在った炭坑は、次々と閉山(向山炭坑・久原炭坑等他)されて行き、現在は、其の子供の人数も段々と減少していきました。

…かつては、「山代西小学校」、「山代中学校」に在籍されていた遊び仲間達の、其の家族の人達は、次第に引越されて行かれました。それで、其の当時の賑わい時代頃の事を思えば、実に、寂しい限りであります。

…だが、一度は、「山代町(佐賀県伊万里市)を故郷とされていた人達」が、若し「望郷の念に思いを馳せる」事が在るとすれば、是非、【浦ノ崎駅・桜祭り】の季節の時期を利用し、一度、訪れられてはいかがでしょうか。其の折の宿泊先と致しましては、一般の料金から考えれば格安的な【ビジネスホテル】も【伊万里市内】の駅に近い処にありますので…

【松浦線(MR)・浦ノ崎駅】


…以下【追記】(平成25年・2015/03/22)…

…【伊万里】(現在・都道府県の市の名称に成っています)の語元とは、「伊万里神社の由緒書」に因れば、「天平12年(740年)…紀飯麻呂」(キノイイマロ)の名称に由来等と記されています。尚、「伊万里氏族の始まり」に付いて、私は、気になって調べてみますと
…「953~1025年の人…渡辺綱(大江山鬼退治の主役)の子孫(源太判官・久)が既に呼ばれていた地名を用い、【伊万里氏】(松浦党の祖ともされる)の祖と成ったとされる。

…然して、「松浦党」(松浦水軍)に言う、【松浦】の呼称(名称)は、其れ以前、既に用いられていた地名で在ります。然るに…《山上憶良【松浦・サヨヒメ題材】謹敬歌…『万葉集』巻五…第868番歌・第871~875番歌》…と成す、『万葉集』(編者→大伴家持?・八世紀後半頃完成)に、先例が在ります。

…では…《【松浦】(マツウラの語元》…は、何か?と、調べると、『肥前風土記』に、めずらしい」(オキナガタラシ・神功皇后の鮎釣りに起因(神功皇后39年条)するとか、等と、記されています。然るに、『日本書紀』に因りますと、此の、【神功皇后】は、【卑弥呼】に比定されていて、『三国志』(中国で購入しました)の「倭人伝」(景初2年・臣松の注釈文が在ります)に、卑弥呼の事が記載されています。然し、此処で面白い事に私は気が付きました。つまり、本家の『三国志』に因ると、【卑弥呼】の使いが我が、日本国(倭国)に来た年は…「景初二年六月」…等と、記載されていた事でした。だが、我が日本語訳の本を見ますと、何故か、一律的に…「景初三年」…等と記載されています。つまり、双方の国の暦に於ける「一年違いの記述」は、何を意味するのか?、と言う事です。此れは、多分、私の推測では在りますが、【魏】の暦と、【倭】の暦とは、其の国史に於ける、起元的設定年方式が違っていたのかも?。従って、此の事は、我が国に於ける【先史・研究】に於いては、未だ、謎の中に在る…《【景初4年年号鏡》…の謎解きのヒントに成るかも?…と思う次第で在ります…。

…然して、【めずらしい】(肥前風土記)に起因するとしての、【マツウラ】(松浦)語元説に対し、補足するとすれば、つまり、何故、本家の『三国志』(倭人伝)の注釈者が…《【松臣】なのか?》…と言う事に在ります。然るに、私的に要約すれば、【松臣】とは、「先史時代の【松浦水軍】の子孫の一人で在った」と、私は開始訳致します。

…『後漢書』記載の、班固の文面(『前漢書』地理志を引用)を要約(魏略?)すると…「紀元前1世紀の倭人は、「100餘国在った」が、今西暦82年の使訳所が言うには「30国で在る」と記載されている。然るに、其の年(82年)から25年後の、『後漢書』によれば…「安帝永初元年(107年)として、「倭國王・帥(ソツ・ソチ)升等獻(献上)生口百六十人願請見」等と記載されています。然るに、此の時代の流れから見て考察すれば、つまり、獻(献上)生口百六十人願請見】 の意味する処は…其の、《「献上…生口・160人」》…と記す、其の人達の中には、我が国の先史時代(西暦1世紀~4世紀)に於ける【通訳】が含まれていた、と、私は考えます。つまり、此処に言う【通訳】とは、『後漢書』に記載されている処の、【臣松】の事で在り、其れは、現在に言う、松浦郡(佐賀県)に位置する地域、然るに、朝鮮半島方面の海域を支配(制海権)していた【古代・松浦水軍】の人間だった可能性が在ります。然るに、其の記述に言う【生口】の意、とは、【技術集団者】だった可能性が在ると言う事であります。

…「西暦2世紀頃」(卑弥呼の時代)の我が国に在っては、特に、西域の情勢を探っていた可能性(倭綾値・渡来)が在り、つまり、【卑弥呼】の使者が、【魏】へ、使いを出した時には、同じく、西域方面からの使いも来ていた事が、『三国志』に記載されています。

…続きは、後日と致します…宜しく。