【浦ノ崎駅・桜祭】&【サヨヒメ・塚】の周知活動 | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

【浦ノ崎駅の桜祭り】(桜のトンネル)
掲載日:2015-02-14
投稿者: Hotuma Tarouさんの 浦ノ崎への評価は★3です。
…佐賀県伊万里市に位置する【松浦線(MR)・浦ノ崎駅】停車場周辺の桜の木は、其の植樹から「70年程の経過」を経て、今は大きく成長しています。

…現在(平成27年)、電車が此の【浦ノ崎・駅】に停車すると、其の停車位置は【桜のトンネル】の中にあるような雰囲気に包まれます。

…此の伊万里市(佐賀県)の地域は、其の昔(廃藩置県)、一度は【伊万里県】と成った事も在る程の賑わいぶりをみせていました。そして、其の当時は子供達も多く、学校の教室は「10組~11組」程にも至った事も在りました。然し、時代の流れと共に、此の山代町の地域に在った炭坑は、次々と閉山(向山炭坑久原炭坑等他)されて行き、職場を失った炭坑関連の人達は、段々と、引っ越しされて行かれました。従って、現在は、此の山代町地域の子供の人数も、段々と減少していき、少なくなっています。

…然るに、かつては、「山代西小学校」「山代中学校」に在籍されていた遊び仲間達の、其の家族の人達は、次第に引越されて行かれた事に因り、当時の賑わい時代頃の事を思えば、今は、実に、寂しい限りであります。

…だが、一度は、「山代町(伊万里市)を故郷とされていた人達」が、若し「望郷の念に思いを馳せる」事が在るとすれば、是非、【浦ノ崎駅・桜祭り】の季節の時期を利用し、一度、訪れられてはいかがでしょうか。其の折の宿泊先と致しましては、一般の料金から考えれば格安的な【旅館】が【浦ノ崎駅】に近い処に一軒あります…。

…上記の記事は、或「クチコミ・記事」(役に立った人 4人として投稿したのを、少し、訂正(旅館名を削除)し、此処(アメーバブログ)に掲載致しました。


…下の画像の【佐代姫神社】(左)は、【浦ノ崎・駅】の西方「徒歩・約3~4分」程の処に建立(浦ノ崎社会保険病院・中庭)しています。【佐代姫神社・由来】に因りますと、「大伴連狭手彦」は、「宣化2年」(西暦537年)~「欽明天皇」の時にかけて、日本府とされている朝鮮半島の「任那・救援」の為に征船するが、【佐代姫】は、其の船を追って力尽き、其の「姫の亡骸を乗せた船」が辿り着いた地域で在ります。従って、此の【浦ノ崎】には【佐代姫・塚】(大伴連狭手彦は二度、此のサヨヒメ塚に立ち寄った、が現在に到っても、尚、存在し続けています。

…因みに、『万葉集』に取り込まれている【佐用姫・歌】が詠まれた時代は、其の【松浦・サヨヒメ】の死後、約200年程過ぎた、現在に言う処の日本史の中の【サヨヒメ・物語】が、史実から離れて、伝説化されていった初期頃の事でした。然るに、其の、唐津の地域で、伝承として語り継がれていたのを、【山上憶良】(歌人・大伴旅人と歌壇を形成する)が、其の歌壇形成に当たり、其の歌の題材として選び、【佐用姫・歌】(和歌)が詠まれたので在った。其の後年に至っては、世間の多くの人達に此の【悲恋物語】が知られる事と成ったので在りました。そして、今では、【日本三大・悲恋物語】(①「松浦・佐用姫物語」・②「羽衣物語」・③「竹取物語」等)に言う伝説の一つとされていますが、然し、【佐代姫・悲恋物語】に関しては、歴然(レッキと同義)とした我が日本国の歴史的史実に基付く物語なので、伝説からは外さなければ成りません。

…【山上憶良】(筑前國司の赴任は神亀年間・724~729未年頃…帰京は天平四年・732年前後頃とされる)が、【佐用姫歌・歌】を詠む以前(此の年より約200年程も昔・532年)に在っては、且つ…現在に至っても、尚…《【松浦・サヨヒメ】の亡骸遺体)》…の行方は、依然として【】の儘(ママ)…に在りました?。然る如くの事、此の物語は、現在に至っている次第で在りましたが、奇しくも、此の近代文明の時代(平成27年2月17日火曜・現在)に至り、此の…《【サヨヒメ遺体】の行方の【】》…は、運命的な巡り合わせを以て、世間の人達に周知される日が近づいてきているので在ります。此の事に付いては、後日に、其の種明かしを致します事、宜しく…

…此の、【浦ノ崎・駅】地域の、其の昔の事に関する詳細に付いては、【Google・検索】で見付けた処の…「現地レポート・記事」(URL ↓ ↓ ↓ )…を参照されたし。

… http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/no1/99_imari/kusu3.htm …
…(上 ↑↑↑ ドラッグして検索)…

…尚、
「現地レポート・記事」の中の佐代姫遺体】(亡骸が、此の、立岩 の港(浦ノ崎)へ流れ着いた当時の事に付いての伝承部分を抜粋(コピ-)し、下記(貼り付け)に記す事と致します。

「佐代姫は狭手彦の船を見送って鏡山の山頂で領巾を振っていたが、船が島影に隠れると半狂乱の如く山を駆け降り、舟子たちをあつめて、夫の船を追いかけるよう懇願した。出帆はしたものの、次第に荒れてくる嵐のため疲れ果てた舟子たちは、沖の小島にようやく漕ぎつけて逃げさってしまった。船に一人残った佐代姫はあらん限りの声をあげて泣き続けた。俄かに満風に帆を上げて舟は矢の如く走り出した。立岩付近は嵐の後には必ず魚群があつまる漁場であったので、漁師たちはこぞって魚獲の最中であった。このとき漁師の一人が沖の方から流れてくる漂流船をみつけた。早速漕ぎつけてみれば、中に若き貴婦人の亡骸があった。漁師は、沖からくるあらゆる物は幸をもたらす前兆だといい、死体は丁寧に収容することに一決し、形見の衣装と船中にあった壷は記念のため保存することにして、海岸に塚を築き懇ろにこれを葬った。(杜会保険浦之崎病院の中庭に現存)」、後にこの女性が佐代姫であることがわかることとなり、葬った塚に社殿を造築したものが今の佐代姫神社であり、この由緒にもとづいて、この付近を字『佐代田原(タバル)』、『佐代搦(ガラミ)』といい、ここのかたわらを流れる川を佐代川と名付けたと伝えられています(現地レポート抜粋記事)。

…下の画像(追加)の「石の鳥居」の奥が佐代姫です。其の下の左側が【佐代姫・神社】。右側が【MR線(旧J R…浦ノ崎・駅】です…。

…因みに、『万葉集』でお馴染みの「サヨヒメ」に対する漢字表記は【佐姫】(代→)と表記されています。 …以下【追記】(2015/02/21)…↓ ↓ ↓

…歌人【山上憶良】の【佐用姫伝承・歌】は、『風土記』が奏上された頃(724年)、筑紫に赴任し、詠まれている。然るに、【山上憶良】は、【サヨヒメ】と言う名称を用い、詠まれていて、
【弟日姫子】(『肥前國・風土記』に記載在り)の名では詠まれていません。つまり、『肥前國・風土記』記載に因る【弟日姫子】物語(死後・虵に化身)に於いては、後年に於ける「後付的物語」と考えられます。此の事を証明出来るのが…《浦ノ崎【サヨヒメ・塚】の存在》…で在ります。

松浦県佐用姫の子が領巾ヒレ振りし山の名のみや聞きつつ居らむ(麻都良我多 佐欲比売能故何 比例布利斯 夜麻能名乃尾夜 伎伎都都遠良武」…【万葉集第868】(筑前国司・山上憶良…730年・天平2年7月11日・憶良謹敬す

遠つ人、松浦佐用姫、夫恋に、領巾振りしより、負へる山の名(得保都必等 麻都良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈…【万葉集第871 

…つまり、『肥前國・風土記』には、【サヨヒメ・亡骸】(遺体)に関する事に対しては、全く、詠まれておりません。又、其の女性名は、「1文字1音・和歌方式」(定型詩)に従って、【山上憶良】は【サヨヒメ】(佐欲比売)と詠っていて、決して「オトヒメコ」(弟日姫子)とは、詠んでおりません。従って、現存する【佐代姫・塚】(佐賀県伊万里市山代町立岩… 字・浦ノ崎)の存在が意味する処は、「我が国最古の、歴史的な史跡で在る」と言うことで在ります。

……《日本国とは何か?》……と言えば、つまり、「日本国家の建国思想」とは、古代期(紀元前)に於ける世界史的地理に於いての極東(地中海沿岸・西洋方面から見た方向地)を認識していた知識人達(ダマスコ・契約秘儀宗団者)が、此の、極東を目ざして移動し、其の建国を果たした暁を以て、命名した国称で在る。然るに、其の国名は、新た成る【幾何学的形状文字】を以ての文字言語、即ち、【原始・ヤマトコトバ】を以ての造語に因る【ヤマトクニ】、又は、【ホツマクニ】と呼ばれた。尚、其の建国思想は、先述の如くの経緯を経ての【日本国家・建国思想】で在るが故、古代文明の中心地(紀元前数世紀内・地中海沿岸文化圏)からは、其の文化(例えば西洋暦の法則等)の「波動的連鎖の輪」が広がる発展的文明技術等の移動、或いは、支配されての【享受】 (きょうじゅ)では無く、【ダマスコ・契約秘儀宗団者】のトップ宗団の中の一部の人達が、此の極東の島(日本列島)に移動して来て、最先端的技術(例えば農耕技術等)の指導等を行い、大陸の端的、朝鮮半島の住民よりも優れた国家体系を成し得たので在りました。つまり、極東に位置する最終地点(日本列島)に於いて、且つ、又、大海に囲まれては、当時としては大陸間を容易に往来する事の難しい位置に在りながら、先進的文化の波動が及びにくい位置に属しているにも関わらず、【元始・ヤマト国家】の住民達は、当時の朝鮮半島の文化を凌駕する程の力を有していたので在りました。然るに、他国からは【倭国】と呼ばれた、其の、我が国の文字(幾何学的形状文字)に因る造語、即ち、【ヒノモトクニ】(日之本国)の語意に、日本人のアイデンティティーが秘められているので在ります。

…【任那】ミマナ・ミマキイリヒコの御名を語元とする)の建国、及び、【百済】との同盟に到る経緯の発端は、「角が在る人」(ツヌガアラヒト)の朝見、及び、貢献に来朝した事に因って始まったので在る。其の事を知った【百済】も朝見を以て同盟国と成った。つまり、ツヌガアラヒト】(後の任那国の王)は、【元始・ヤマト国】との交易を望んで来朝した事に因って、後、【百済】も朝見してきたので在る。此れが意味する処は、地中海沿岸文化圏の知識が、波動的移動(大陸民族に因る歴史的伝播)では無く、直接、「先進的・地中海沿岸文化の技術」(例えば…鉄器作成技術)が、もたらされ、発展的に我が国独自的な文化を保有する事と成ったので在りました。従って、「秦羅→ 新羅の王子(ヒボコ)も、ツヌガアラヒト朝見以前、自国(弟に譲り)を棄てての帰化」で在った。

…然して、【佐代姫・塚】(浦ノ崎・佐代姫神社の東側に存在する)の存在に於ける、其の、周知活動(ブログでの情報発信)の意図する処の一つは、我が日本国に在って、現在、失われている【日本建国・思想】の起点、そして、【日本建国・暦】&【日本建国起点・歴年】(神武天皇即位1年目)の施行に先立つ、元始日本語の始まりを、日本の人達に知って欲しい事に在ります。尚、其の事に関し、【佐代姫・塚】(佐代姫神社・由緒)を絡ませた意図と致しましては、【日本語の起元・解明】に至った、其の、最大的条件と成ったのは…《綺麗だった海水の【浦ノ崎・海岸】で幼年期を過ごした事に対する認識に到ったからで在りました。此の事に付いては、『ハマボウ(黄槿)の花の下で』アメーバブログ・テーマ)にて、記載している次第で在ります。つまり、「佐賀県伊万里市山代町…字・浦ノ崎」の海岸際で、幼年期を過ごした事が、其の、「日本語の始まりが知りたい」(筆者・3歳頃…昭和25年・1950年夏の出来事に起因すると言う動機に至った、第一の条件で在りました。

…【日本語の始まり】(紀元前後頃)より最っと以前…ユーラシア大陸(ヨーロッパ大陸とアジア大陸)の人類史の中に於ける民族、及び、国家存亡の戦を以て生き抜いてきた人達の先進技術(ヒッタイトの鉄器)は、強力な武器(鉄器・戦車等)の開発にも繋がっています。それら、戦の時代(ギリシア~ローマ時代)の流れを引き継いでの、朝鮮半島の国々の民族も、其れなりの武器を有し、戦慣れした民族も居た事が考えられます。然して、紀元前頃迄の日本列島の住民達は、「大陸の先進的文化」に接する事が著しく乏しかったと考えられます。然し、其れにも関わらず、紀元後以降1世紀~3世紀頃迄には、朝鮮半島の国々の勢力を凌駕する程に発展させていたのは、前漢の王が、当時の朝鮮半島の国々よりも先に、其の【金印綬】(57年・漢委奴国)の史実が物語っています。然るに、其の「倭国の、急激的、発展の原動力は何処から来たのか?」と言えば、其れが、【日本人のIdentity(アイデンティティ-)】の根源で在り、【ヒノモト・建国思想」(日本国・創建思想)に行き着くので在ります。

【追記】…【ダマスコ契約・秘儀宗団者】(死海遺跡文書・宗団)達の極東移動の動機に付いては、此処(アメーバブログ・URL)をクリック(若しくはドラッグして検索) 
  
                

TheGlory (カミノエイコウ) of the  God (カミ) of  Isral (イスラエル) kame (クル) from (~ カラ) the way (ミチ) of the East (ヒガシ)… 【ダマスコ契約・秘儀宗団者】達は、「エゼキエルの預言」に基付いて行動していたので在った…。 
  


【松浦線(MR)・浦ノ崎駅】