【№2】…ハングル(朝鮮文字)は対馬の【阿比留文字・楷書体】をパクリ(盗み)創制した文字で在る… | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

…此のブログ記事は、下記表題ブログが「4000文字を越えて保存出来なく成ったので、記事の途中から別け、【№2】として投稿した文書です、従って、此処のブログ( http://ameblo.jp/erusaremu464/entry-11716141802.html )の此処 …の【部分をドラッグして】検索すれば第一回目のブログ「ハングル(朝鮮文字)は対馬の【阿比留文字・楷書体】をパクリ(盗む)創制(製)した文字で在る」に辿り着きます事、宜しく…。

 

№2表題】…ハングル朝鮮文字は対馬の阿比留文字楷書体をパクリ盗む創制(製)した文字で在る…  

 


…然るに、中世に於ける対馬の地域に於ける、【初期倭寇】とは、2度の元寇後弘安の役1281年)に始まる【初期八幡船倭寇】(自説)の事と考えられます。然るに、つまり、此の出来事は、「現在的用語を以て表現すれば、一種の【意趣返し】の意も含んでいた可能性が在る。尚、其れ以後、朝鮮との交易も始まった。

…其の頃、明(中国)から独立した、「李氏・朝鮮」(1392年)が起こり、其の後の我が国の対馬に於いては、「嘉吉3年(後花園元号・1443年)」の時、「対馬の宋貞盛」は、李氏朝鮮の圧力に屈し、「朝鮮との属州的交易条約」が結すばれていた。而して、其の同じ年の12月には、訓民正音朝鮮文字)が創制(創製字は28文字だった)されたのであるが、頒布(配布)迄の3年間の期間に有っては漢字に対応させる文字体系が取り込まれていた。つまり、朝鮮文字の創制時は「28文字(終声文字記号と喉音記号は同じ音)」とするが、其の文字形状は、【対馬文字】の記号形を既にパクッテいる。而して、其の3年後(1446年)、其の朝鮮文字が頒布(配布)された時には、其の文字記号の形状は勿論の事、我が国の【神代文字方式】(母音と子音との合体方式)の体系をもパクリ訓民正音朝鮮文字)と称し、頒布(配布)したのであるが、是の文字の頒布(配布)の意は…「朝鮮国に於ける底辺層の人達に対する識字対策の一貫」…で有った。

…而して、李氏朝鮮は、対馬に圧力をかけた結果、「対馬国・宋貞盛」との間に「属州的交易条約」(1443年)が成立した。従って、「此の交易契約の年の其の12月」には、早速、朝鮮文字が創制(創製28文字)された」ので在る。そして、其の3年後、訓民正音朝鮮文字)と称して成す文字が朝鮮国に頒布(配布)されたので在るが、其の初期的朝鮮文字構造は、漢字に対応さる方式(契丹文字構造を参考にしていると考えられる)に対応させる意に於いて、つまり、中国漢字に対応させる文字構造方式としては、「契丹文字の漢字対応構造を取り込んでいる」と考えられるが、其の「文字記号、及び、母音、子音の組み合わせ方式」は、完全に【対馬文字】のパクリ盗み)で在る。

…「元初朝鮮文字派生」の謎解きの一つと致しましては、其の文字が創制された年以後、朝鮮に於いて【兄弟年干支)】を表題に用いる記述が多々有る事も其の一つで在る。例えば、【癸酉靖難1453年癸酉)・ケユジョンナン】等と称すが、国家歴に於ける是の【歴年的兄弟年干支表記方式】は、古来からの日本独自の方式で有って、李氏朝鮮に於ける其の初期的【兄弟・紀年方式】の表記は、「対馬属州的交易条約」(1443年)以後の事で在り、従って、朝鮮国の訓民正音朝鮮文字)も、「対馬に伝えられていた我が国固有文字」、乃ち、【阿比留楷書体文字】が「パク盗む)られた」事を意味するので在ると私は結論付ける次第ある。然るに、我が日本国の国民と致しましては、我が国に於ける歴年表記に用いる【兄弟年干支表記方式】は、我が日本国の、独自方式で在ると言う事を良く認識する必要があります事、然りで在る。

追記…【阿比留・楷書体文字】の起元とは

『釈日本紀』の記述を借用すれば…「答、師説。大蔵省御書中有肥人之字六七枚許。先帝於御書所令寫給。其字皆用假名。或其字未明。或乃川○〈等?〉字明見之。若似彼可為始歟」。等と記載有る。 

…此処に言う【肥人文字】に付いて、江戸後期頃迄は、未だ謎の儘であった。然し、『釈日本紀』(1227年)の時から約500年程の年代を経た健治元年(13世紀)頃、平田篤胤(18世紀・江戸後期の国学書)は、【阿比留文字楷書体】を研究していて、其の楷書体文字を速く書く事に因って生じたとする文字の形が草書体形状の【肥人文字】(クサモジ)で在る事を発見した。つまり、其の草書体文字クサモジ)の原型が、【阿比留文字】で在る事を発見したと言う事で在る。従って、15世紀に於ける…《訓民正音朝鮮文字ハングル)の創製1443年)、及び頒布配布1446年)」》…以前…つまり、「訓民正音朝鮮文字)創製年(1443年)」の、其の年代より、もっと古い、我が日本国の先史時代(律令時代・以前)に於いて、既に用いられていた【物部文字】(昭和58年・『物部文書初公開)の楷書体文字に当ると言う事で在り、然るに、【阿比留文字楷書体】様式(神代文字式母音
子音との合体)と、其の文字を構成している記号体とを「パクリ盗み)」、其の「パクリ方式」を以て、更に漢字方式を取り込むに於いては契丹文字が取り込まれた可能性がある。而して、訓民正音朝鮮文字)の創制(製)から3年の年月を経て漢字読に対応させる方式に替えられ、頒布(配布)されたのは、釈日本紀』に【肥人文字】(対馬阿比留文字の草書体)の事が記載された年から計算すれば「145年」もの後の出来事で在る。 

…因みに『物部文書』の系譜は、物部守屋(587年蘇我馬子に敗れた)の一子「那下世」を初代として、「第63代・長仁(現・宮司)…昭和62年12月現在」へと継げられています。  

…《高句麗・紀元前?7世紀迄を【コマ】と成す》…其の高句麗が滅亡し、其の後に始まる高麗時代(10世紀頃コウライコウリョ)、然るに、「倭寇1350年庚寅2月を以て…倭寇の朝鮮襲撃は此の年から始まる」(高麗史)とするが、何故、対馬付近の我が国の人達が、其のような行動に及んだのか等の事等を、過去の事と考える前に、先ず、対外国との間に於ける我が国の歴史を知ると言う事も大事だと思います。 

…【初期・倭寇】(14世紀)とは、2度の【元寇】、乃ち、「
文永の役1274年」、及び、「弘安の役1281年」に因る我が国の国難の時であるが、其の【元寇】(蒙古襲来高麗が率先していた?)に至っては、対馬、及び、其の付近の人達の一家は皆殺し、又は、拉致され、生き残った人達の一家も離散。そして、住む土地を無くした人達等も、船生活(交易)に活路(初期八幡船倭寇)を見出していた。然し、其の或人達は、「3度目の蒙古襲来を未然に防ぐ意味」(蒙古は3度目の日本襲来を計画していた)に於いて、又、「拉致された家族と会いたい」等の事にも関連してだったのか?、対馬付近の人達の其の行動は、朝鮮側から見ると倭寇と呼ばれるに至るが、逆に、元寇の時の朝鮮側の見解に於いては「朝鮮の日本遠征」と成るので在る。然るに、対馬付近の【初期・倭寇】が朝鮮半島南部の海岸地域等を襲ったり、朝鮮沿岸の船(蒙古来襲を防ぐ意味を持つ)を焼き払ったのは、蒙古無き後の権力者達(中国の明)も朝鮮を従えて、【日本侵攻】を企んでいたからで在ると考える事も出来るので在る。つまり、【初期・倭寇】とは、高麗(朝鮮)発進に因る2度の【元寇】後も、其の襲来を、日本の幕府は畏れていた事にも関連しているので在る。而して、2度目の【蒙古襲来】以降に於ける対馬付近の【初期倭寇】(交易も兼ねていた)に関し、私(筆者)が敢えて【八幡船倭寇】と此処に表記する意は、「弘安の役に於ける蒙古との戦い於いて、蒙古軍を押し返した戦の主とは、九州の「宇佐八幡宮の化身が顕現した」等と成す伝承(文書が残されている)に起因していると考えられます

…其の当時、室町幕府以上に、「対馬の宋貞盛」は「朝鮮との交易権を有していた事を以て、日本と朝鮮との交易は、対馬の「宋貞盛」が取り仕切っていた。従って、対馬の阿比留文字楷書体】が「李氏朝鮮国に流出するに至った次第で在る。
  

…而して、【阿比留文字】だけが【神代文字】では無い。【秀眞文字】然り、その他の日本古代に於ける有力氏族が保持した我が国固有の【神代文字】は、先ず、【秀眞文字】(ホツマ文字)に始まりました。そして、【天児屋根フトマニ文字】が生まれ、以後、物部氏族としての初代に当る「ウマシマジ」(墓は島根県一宮物部神社の裏山に存在する)に始まる【物部文字】(草書体クサモジ)が誕生する。而して、其れ以前に於いては、【秀眞文字】以外、各々の重要氏族の人達は独自の文字を有していた事が『秀真伝』文章には記されています。然るに、『古語拾遺』の著者に言う【忌部文字】(タチバナ文字)も然りで在る。

…現在に言う、【神代文字】の文字体系の、其の殆どの「神代文字体系は、或一定の方向性を保って構成されている」。因みに、「母音子音記号の左右合体方式」は、「元初の【秀眞文字】の文字構成方式」を受け継いでいるので有る。因みに…【阿比留文字
草書体物部文字)、【アナイチ文字】(ムサシ文字)他、然りで在る。

…其の総ての【神代文字】は…《【基本48文字】に集約されて構成されている》…のであるが、而して、【物部文字】(阿比留文字草書体)に於ける【魂鎮の神事】祝詞、乃ち…ヒフミヨイムナヤコトモチロラネシキルユヰツワヌソヲタハクメカウオエ
(ヱ)ニサリヘテノマスアセ(エ)ホレケ…【】(無表記、及び、言葉は発せず無音鎮魂の意)」(重複文字無し)の【基本48音】の中で、唯一、表記されない文字が【】の文字で在るが、其の「無音文字」の意味は処は何かと言えば、つまり、此の【】の文字を「秘儀的に表記しない」事自体が【鎮魂の神事】の【】であったからで在る。つまり、【鎮魂の義】に於ける【】の文字には、【蘇る義】の意を有しているからで在る。

】…「ヒフミ47音の中の最初の【】と二番目の【】配置的順番は【物部文書文字】の文字配列方式を取り入れています」

…「イロハニホヘト…」の中に
を無表記したのは、先例の言語表記に習っての事で在る。其の先例とは、つまり、【】の文字を表記しない方式は物部氏族文字表記方式」が起元と成る。然るに、物部氏族の【鎮魂の義】の方式に従って、以後、他部族の人達も、其の神事の【言語無音無表記】の例に習っての事と考えられる。従って、後年に於いて作られた「アイウエオ5母音」を基本母音と成す哥の記述方式に従って詠まれた「イロハニホヘト…」の文字配列方式も、其の鎮魂の義の「ヒフミヨイムナヤ…」方式を真似た方式であったので在る。そして、其の原典とは【秀眞伝】文書で在る。尚、此の秀眞伝文書に記載されている【)・】(基本48文字)に習った方式を以て成す【2文字単語】の「アメツチホシ…」等の言語も然りで在る。

追記(2013/12/8/日曜)…【フトマニ】(太占)の「マチガタ」( )の語源に付いて

…【フトマニ】の「マチガタ」の語元(語源では無い)に関連する話しで在るが、律令時代以前(神代の時代)に於ける条里制の源と成ったのが…《【鳥居】の基本的寸法数値》…で在る。然るに、【元始ヤマトコトバ】に言う【マチ】と言う言語を、漢字で書き表したのが【町】(マチ1坪)で在る。つまり、其の寸法数値が、後年に於ける律令時代以後、其の制度化された寸法、乃ち、元初の「6町×6町=36町(一里)」に言う、此の「一里の寸法の1単位の長さの値」とは、「元初的鳥居の柱間寸法」に在る。更に、其の寸法を測る単位に付いては『秀眞伝ホツマツタヱ』文書に記載されている。 此の、条理的数値の手前の段階に当る「坪割り寸法」(36坪)的形状に、其の【フトマニ太占】の語源が隠されているので在る。然るに、此の語源の答えに付いては、又、別の、新たなブログを以て書く事と致します故…宜しく…。


…【阿比留楷書体文字】の母音は…【┣ ・】…【┃・】…【┰・】…【┫・】…【┸・】…で在る。尚、此の楷書体草書体に替えた文字が【物部文字】で在り、薩摩藩が古くから秘蔵していた【肥人文字】(草書体文字)の楷書体文字の事で在る。然るに、訓民正音(朝鮮文字ハングル)の母音は、此の【肥人文字】(正安三1301年釈日本紀に記述在り)の原点に当る楷書体文字(対馬・阿比留文字)の、其の母音の字形をソックリ、訓民正音(朝鮮文字)は真似(パクリ)ているので在る。従って、朝鮮文字を「創製」(独創の意)と言うならば、其の独創的苦心の跡の痕跡的文献が、何故、全く存在しないのか等の、如何なる理由か等を説明する必要が在る。

因みに、訓民正音(♯ハングル)には草書体文字は存在しない。尚、訓民正音(♯朝鮮文字)が頒布(配布)された翌年(1447年)の『東国正韻』に因れば、『原点的母音三音・
┰(┸()』に対し、「」の意とするが、是れは、我が日本国の【太占フトマニ』の中心を成す…『ア()・ウ()・(地)』の語意(下の太占図表を参照の事)と、其の文字体系をパクッタ(盗む)ので在る

然るに、我が国の【フトマニ太占】の秘儀に於ける「マチガタ」(田の文字的形状に関連する)の記号の形状は…『㊤&㊧→┰ ㊥←㊨&㊦』(左右の赤天印は㊤と㊦の意は方向を示す)…と成す、【一体的記号】で在り、其の【マチガタ記号】が鹿骨に記される。然るに、其の【マチガタ記号】(┰┸)の基軸で在る㊤と㊦、及び、其の枝(㊧㊨に伸びた線)の各々の名称とは
       
…【㊤→穂・】、【㊧→加美・カミ】、【㊥→多米・タメ】、【㊨→江美・エミ】、【㊦→斗・】… 
…乃ち、「加美江美多米」(カミエミタメ)…と呼ぶ…尚、此の「トホカミエミタメ」の語義を人形的に摸倣、造形された器
ト兆器)が…「下野宇都宮荒神社蔵銅製」(裏面に4字在り…【大同二年(807年?)】…で発見されている

…【2013/12/12/木曜】(此の記事の中程の処から追記しています)…

尚、此のブログ記事は、最初のブログの表題『…ハングル朝鮮文字は対馬の阿比留文字楷書体をパクリ盗み創制創製)した文字で在る…』と成す記事に、再度、「書き足し」を行った結果、「4000文字」を越えたので保存が出来なく成りました。それで、其の文書を、途中から二つに別け、再投稿と成った次第で在ります。従って、その後半の文書の表題に対しては、最初の記事の続きの意を以て、【№2】の数値を表題の頭に付し、再投稿し、其の
№2の文書が、此のブログ記事で在ります。