蓮實重彦『ショットとは何か』再読。
インタビュー形式だからか、昔の蓮實さんが文章で書かれた本に比べたら随分わかりやすいものになってます。
まずはご自身が10代の頃、大きな衝撃を受けたドン・シーゲルの「殺し屋ネルソン」とニコラス・レイの「大砂塵」、ジャック・ベッケルやジョン・フォードの映画について熱く語られております。
ここが蓮實重彦映画批評の原点ということかもしれません。
こういう、自らの10代の原体験として映画を語る、という私的な語り方は、これまであまりされてこなかったので、蓮實さんが生身の言葉で映画への衝撃を語られているなぁという印象が特に強いです。
そこからショットとは何か?ということの本質に迫っています。
「殺し屋ネルソン」の衝撃を通して言われている事は、ハリウッド50年代映画の重要性と、王道の映画ではないが、その無媒介的な暴力などの生々しさが画面にダイレクトに溢れている、その新しさです。
その抒情を排した凄さを体感してほしいとの事ですが、残念ながら「殺し屋ネルソン」はドン・シーゲルという私も大好きな有名な監督の作品なのに、ビデオにもDVDにもなっておらず、世界的に冷遇されている映画ですが、その冷遇に蓮實さんは昔から怒っているようですね。
かなりの傑作なんですけどね。
何でドン・シーゲルのような有名な監督の名作が冷遇されてるのか訳が分かりませんが。
このドン・シーゲルを語っている箇所では、私も大好きな映画「アルカトラズからの脱出」が大絶賛されているのが嬉しいところです。
まだ学生の頃、正月映画の封切りで「アルカトラズからの脱出」を観て、その充実した映画としての魅力にかなり感動した覚えがありますからね。
その頃から既にドン・シーゲルという監督がいかに優れた映画監督かという事は「ダーティーハリー」や「突破口!」「白い肌の異常な夜」「ドラブル」などを観て知ってましたので、さすがドン・シーゲル!と正月早々に思ったことを読みながら思い出しましたな。
それとニコラス・レイ監督の斜めの構図の会話に代表される画面の空間把握力、または空間設計についても熱く語られており、それが倒錯的なまでの強烈さでよく出ているのが「大砂塵」なわけです。
「大砂塵」はちょっと変わった西部劇ですけど、確かに倒錯的な魅力のある映画だと思いますね。
私個人はニコラス・レイ作品だと「孤独な場所で」という映画なんかも、どうにも気になる異様な映画ですね。
これ、ドロシー・B・ヒューズの原作小説を先に読んでいたんですが、そっちはそっちでサイコサスペンス小説として面白かったんですけど、ところがレイの映画版の方は、どうやるとあの原作をさらにこんな異様な映画に変容させられるのか…というくらいの驚くべき映画になっていました。
やはりニコラス・レイという人は凄い監督だと思いますね。
それとハリウッド50年代作家ではリチャード・フライシャーの素晴らしさについても語られています。
そしてジョン・フォードの「わが谷は緑なりき」における、牧師のウォルター・ピジョンが自分の部屋のランプに火をつけてマッチを捨てようとした瞬間、寄りの画面が引きのショットに切り替わり、部屋の片隅に密かに座っていた、実は互いに惹かれあっているが他の男と結婚間近のモーリン・オハラの姿が浮かび上がるショット連鎖の素晴らしさについても語られています。
これは、ジョン・フォードが他の映画でもやっている得意技ですね。
またはハワード・ホークスのスターシステムを無視した、平等に人物を撮る姿勢についても賞賛されています。
これらの映画はショットが素晴らしい作品なのですが、しかし今日の映画監督にはショットが撮れる監督が少なくなってしまったことを嘆いておられます。
期待していたトニー・スコット監督が自殺してしまい、マイケル・マンも思うように映画が撮れない状態。
ショットに対するこだわりが凄かった青山真治監督も若くして亡くなってしまいました。
何とかジム・ジャームッシュが頑張っていますが、やはり現代において最も優秀な監督はウェス・アンダーソンということになり、ほぼ1人勝ち状態との評価です。
まぁウェス・アンダーソンは筋が良いですからね。
しかしながら、ショットが撮れる優秀な新人監督がこのところ日本やアメリカにどんどん登場していることを喜んでおられますが。
さて、このショットの問題に関して、映画史の中には大きな分水嶺があるんですよね。
それは音のないサイレント期の映画から音の付いたトーキー時代の映画への変遷という大きな変化です。
その時に何とか器用にトーキーに移行した監督もいるんですけど、それまでサイレント映画時代のトップにいたようなD・W・グリフィスやバスター・キートン、エーリヒ・フォン・シュトロハイムらの映画作家は凋落してしまいました。
そこに映画がショットというものの重要さを軽視しだした問題が露呈していると言われているように思えました。
簡単に言うと、かっては音がない状況の中で画面の力で物語を語り、それによって映画としての魅力を溢れさせていたものが、トーキー時代となり、音や言葉が使えるようになったことで、それまでのショットによる描写というものが軽視され出し、それが音や言葉による描写に代替されたことで、本来の映画というものの本質的魅力が半減してしまったのではないかという問題です。
そのわかりやすい例として、グリフィスのサイレント短編「ドリーの冒険」について語られています。
この「ドリーの冒険」のように、全てを画面で語るという、謂わばショットの重視が失われてしまったのが、多くの現代の映画であると言えなくもないです。
故にグリフィスという映画作家を無視した映画監督が現代には普通に溢れ返ってしまったわけですな。
まるでグリフィスなどという古典的な映画作家なんぞ、映画史に存在しなかったかのように。
ただですね、バスター・キートンもトーキー時代には後継者がいなかったというようなことが書かれているんですけど、これについては、個人的にはジャッキー・チェンは何とかキートンをアクションで継承しようとしてきた人なんじゃないかなと思ってるんですけどね。
どうやらそう思ってるのは私だけではないようで、よくバスター・キートンのサイレント映画の中のアクション場面とジャッキー・チェンのカンフーアクション映画の中のアクション場面がいかに類似しているかということを一目瞭然の比較映像で証明しているまとめ映像をネット上で見かけるんですが、これに関して蓮實さんはどう思っておられるのか、一度聞いてみたいところですね。
はてさて、この本は今まで書いてきたことも大変貴重な批評の言葉の数々なんですけど、やはり蓮實重彦さんが「カイエ・デュ・シネマ」の、ヌーベルヴァーグの父とまで言われたアンドレ・バザンと、ジル・ドゥルーズの「シネマ」1、2をかなり辛辣に批判しているのも気になるところです。
前に「映画時評 2012-2014」の中の伊藤洋司氏との対談でもバザン、ドゥルーズ批判は展開されていましたが。
でもね、だいたいドゥルーズの「シネマ」1、2とかドゥルーズの映画論を日本でほぼ最初期に大絶賛して紹介していたのは蓮實さん御本人なのですけどね。
だって私、その昔、蓮實さんがドゥルーズを絶賛してるのを読んで、興味を惹かれ「シネマ」1、2のフランス版の原書を買いましたからね☆
だから多くの昔から蓮實さんを知る人の中には、蓮實重彦さんというのは「カイエ・デュ・シネマ」やドゥルーズの映画論の密輸業者だと認識していた人も割といると思います。
私も半分くらいそう思ってましたし、それを蓮實さんを揶揄する言葉にして批判してる人もいましたし、どうやらご本人もそう思われているらしいと薄々思ってたみたいです。
だからバザンやドゥルーズを批判しだした時はちょっと驚いたんですけど、まぁでもだからといってバザンの「映画とは何か」やドゥルーズの映画論を完全否定してるわけではないみたいですね。
実際、蓮實さんご本人も「映画とは何か」はダメな本ではないし、バザンも優れた批評家だと言ってますし、ドゥルーズの論考を完全否定してはいないようです。
ただ映画を論じるにあたって、あまりにも大雑把な理屈に括りすぎているというか、その辺のアラの多さを批判してるという感じですね。
バザンの場合はリアリティのようなことを追求しすぎるあまり、どうも映画の重要な部分を見逃しているのではないか?という批判に読めますね。
実際私も前に「映画とは何か」の上下巻は読んだんですけど、まぁ基本的には蓮實さんの批評とリンクするところもあるなと思いつつも、やはりリアリティ追求を過度にやっていく批評軸に、ちょっとそういう映画批評というものの限界を感じないでもなかったですね。
ただ個人的には大好きな映画作家であるアンソニー・マンをバザンは重要な映画作家として絶賛していて、そんな映画評などあんまり読んだことがなかったので(日本ではアンソニー・マンはずっと西部劇のよくいる職人監督くらいの扱いでしたから)その点においては、個人的にアンドレ・バザンがあんまり嫌いじゃないんですけどねw
それに蓮實さんの批判によると、ジョン・フォードがわかっていない、ジャック・ベッケルがわかっていない、無視していることが許し難く、それでリアリズムに固執しすぎていることに批判的ということなんですが、「映画とは何か」を読むと、一応バザンはジョン・フォードの「駅馬車」とか「アパッチ砦」とかある程度褒めてますけどね。
バザンは「駅馬車」を"完璧な車輪のような映画であり、どこを走らせても車輪の上でバランスを崩すことがない"とまで褒めてます。
ただこの褒め方が、蓮實さんには、違う、足らないということなんでしょうかね。
バザンは、蓮實さんのお好きなニコラス・レイの「大砂塵」もかなり評価してますし、ジャック・ベッケルに関しても、最初こそ「肉体の冠」をあまり評価しなかったので、蓮實さんお怒りのようにフランス本国に悪影響を与えたのかもしれませんが、しかしその後イギリスの映画評論家のリンゼイ・アンダーソンによる高評価の批評を読んで、バザンは"映画の良い部分を見落としていた"と反省の弁を「映画とは何か」の中で語ってるんですけどね。
"ちゃんとベッケルの映画を見てませんでした、反省してます"と一応言ってるんですけど。
しかし蓮實さんとしては、フランス映画界最高の映画作家だと思っているベッケルの評価としてはまだ手緩すぎる、美点を見逃してて反省したなら、バザンよ、他のベッケルの映画も積極的に褒めろ、ってことなんでしょうかね。
ドゥルーズなんかも、自らの理論のために映画を分類的に観ているようなところがあって、それならちゃんとあらゆる映画を網羅しなきゃいけないのに、圧倒的に映画史において重要な映画を見逃してるそのアラの多さというか無頓着さに対して、蓮實さんとしては、それじゃあ分類学の前提が成立していないじゃないかという点が、もはや看過できないといったところではないでしょうかね。
それとドゥルーズもどうもリアリズムの方向に行ってしまうところがあるんですよね。
ドゥルーズはアンリ・ベルクソンの「創造的進化」を進化発展させようとして、迷走してしまったということのようです。
まぁこの本の中では、映画の理論というものが実際の映画に追いついていないという指摘もずっとされていまして、だからこのバザンやドゥルーズへの批判というのは、映画理論で映画を分かった気になるなんてのは大変な思い上がりだという批判の一つとも読めるんですけどね。
デヴィッド・ボードウェルが「180度の規則」というものを、なんだか普遍的な映画の規則のように言っているけど、そんな規則などジョン・フォードもチャップリンすら守ってなくたって映画を成立させていることを細かく例を出して批判してるところにもそれは感じられます。(しかしボードウェルは別に"180度の規則"を、古典的なハリウッド映画に顕著によく見られた傾向として語っただけとも言われていますが。で実際に"180度の規則"がよく出てくるような映画は存在したわけで、その事はこの本の中で蓮實さんすら認めているんですがね…)
ただ一番言いたいことは、
もっと映画の裸形の現在性というか、映画のナマの現場である画面、ショットに、絶えず鋭く目を光らせて、そこに映画理論など超えている新たな驚きというものを絶えず発見し、注意深くなければ、もはや映画を本当に観ていることにはならないのではないかという、貴重極まる提言に読めました。
そういう意味ではこれまで何冊も蓮實重彦さんの映画の本は読んできましたけど、改めて勉強になったというか、今まで以上に蓮實さんの映画批評というものがダイレクトに伝わってきたような気がしました。
蓮實さんが言われるところの「映画を人類から取り戻す」
"「人間」が捏造してしまった人類的な映画というものを「人類」の側からではなく「奇妙な経験的=先験的な二重体」としての「人間」の側から語らなければならない」というこの根本認識がやはりかなり重要な気もします。
ヴィンセント・ミネリ「バンドワゴン」の「Dancing In The Dark」のダンスシーンの素晴らしさや、
マックス・オフュルスの「たそがれの女心」のダンスシーン、
ルキノ・ヴィスコンティの「われら女性」のアンナ・マニャーニのクローズアップの美しさや、
オーソンウェルズの「黒い罠」冒頭の長回しの見事さ、
ウェス・アンダーソンの「ファンタスティックMr.fox」のジョン・フォードばりの同軸つなぎや、
ムルナウの「サンライズ」の突如現れる路面電車の驚き、
等々についての評論には共感すると同時に勉強になりましたしね。
ここで蓮實さんが素晴らしいショットとして挙げているものの多くは、ショットが変わっているのに、まるで変わっていないように見える、一続きのショットであるかのように見えてしまうような絶妙さを表現しているものを賞賛しているところがありますね。
追記: ただまあ、この本は評価するけれども、早大大学院で指導教官だった文芸評論家の渡部直己がセクハラ事件で東京地裁から約60万円の賠償を命じられてるのに、その渡部が出した新刊に柄谷行人と共に蓮實さんは帯に推薦文を寄せているらしいですが、蓮實さんは何にも悪いことしてないのに何で?って感じで、そういうところには懐疑的にならざるを得ないですな。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fba0f93c26accb3b80567890fdd8add50fddb9b2