バニラ散歩・記憶と映画 | 羊毛フェルトで紡ぐ不思議へんてこなものがたり♠︎アトリエ.バニラ

羊毛フェルトで紡ぐ不思議へんてこなものがたり♠︎アトリエ.バニラ

バニラのつくる、
不思議とヘンテコな世界。
羊毛フェルトや刺繍。
アンティークな素材でつくる、猫や動物、いろんなもの。
其々に
ひとつひとつの、
ものがたり。

夕暮れ時の、バニラ散歩。


前回記したが

「バニラ散歩」は地味に続いている。


今回は

わたしの中の記憶を

取り出しながら歩いた日のこと。



モリのいる場所



最近になって

ふと思い出した作品を、

ひとりでじっと観た。



祖父のことを思い出す、

と同時に

祖父とわたしだけの

「苦い給食」の思い出も何故か、

取り出してしまった。






切り取った日常は昭和49年から

始まる。

(おー、と思う。実はバニラ、誕生)




画家「熊谷守一」とその家族。

そしてそこに集まる人々。


主人公「モリ」は30年間、

自宅とその庭から

出掛けることもなく、過ごしている。

94歳。

「沢山人が来たら困るよ…」と、

勲章も辞退。

ひたすらに、小さな「森」の様な

うっそうとした庭で過ごす。


草木、虫、石ころに話しかけ


座り、寝転び、じっとみる。


ゆっくりと流れる時間だが、

彼は彼のなかで毎日、忙しい。


午後は寝て、夜は「学校」。


「学校」というのは、

アトリエで絵を描くこと。


そんな「モリ」を妻は

守っているようだった。


文句など言い合いながらも

穏やかに暮らしている。







この「うっそうとした庭」は

祖父の庭の記憶と少し似ている。

(今は、母のリフォーム庭であるが)


そんなに広いわけではない。


小さかったわたしには

祖父の庭が、


家をまるっと取り囲む、

植物で繁ったあの庭が

とても大きく見えていた。






「バニラ散歩」駅までの

いつもの道。




見上げたら、空。






前に書いたがほんとうに

すぐそこが、山なのだ。


いつも、なんとなく通る場所。

いつも、鳥が鳴いていて

見上げて探しながら、あるく。


「モリ」の庭も、大きくみえた。

「小さなわたし」に戻ったように。








母曰く

「これ、『ずぼーな』よ」らしい。


(この辺りだけの、しかも

年代によっては知らない

呼び名だろう。)


調べたところ

イネ科の植物「チガヤ」だと思われる。

母はこれは

(どの段階かは知らないが)

食べられるんだ、と言っていた。






いつもの道、日陰のドクダミ。

葉っぱが♡なんだよねぇ。





この前は無かったのに…

ドクダミの隣。



「オオキンケイギクよ、これ。」と母。

どこでも増えて、大変よー!と。

たしかに、すごい、ある。




「キバナコスモス」の黄色とは

少し、違うような。









祖父とわたし。

物心ついた頃から小学生までか。

よく一緒に居て、

庭でいろんなことをしていた。






母はいわゆる

「昭和の長男の嫁」で

のちに母から聞いた

「新しい家族との毎日」は

奮闘、といえる。

幼いわたしには

わからなかったことが沢山あった。


「母とわたし」については

そのうち

別記事で書こうと思う。



そんなわけで

母はいつも、せかせかとしていた。



小学校に入学してからの2年半、

給食のことばかり覚えている。


それは惨憺たるものだからだ。




幼児期から低学年までのわたし。


痩せっぽちだった。

若干低体重で産まれ、

そのまま食も細く。


(今では、痩せっぽちの影もないが。)



「好き嫌い」というよりも、

「量」が食べられなかった。

そしてそのまま「入学」した。




わたしは「昼」になるのが怖かった。



毎回「当番」が一律の量を

器に盛る。

先生が隣に立っていて、

食べられないから少なくして欲しい、

などという言う分は聞いて貰えない。


わたしの胃袋には多すぎる、

おかず、牛乳、パン、副菜。

とにかく、食べ続ける。


コッペパンはわたしには

「フランスパン1本分」に見えていた。


当然、胃袋に入らない。


チャイムが鳴って、昼休みになる。

その間も、ひたすら食べる。


先生が教室の席から見張っている。


わたしには昼休みの

校庭で遊んだ記憶はない。


そのうち、掃除の時間になると

席を後ろまで下げられて

その埃の中でも食べ続ける。




わたしと、他にもいつもの

同じ小さなメンバーがいて、

大粒の涙を流していた男の子を

覚えている。


私は泣くことはなかった。




小さなわたし達は

先生に逆らうことも何も出来なかった。

「食べられません」と言っても

許されなかったから。


今ならば、考えられないのだろう。


とにかく、午後の授業が始まる

直前まで食べることを強いられた。






ある時、先生の目を盗んで

「お道具袋」に

コッペパンを放り込んだ。


ある日には

机の引き出しにも、放り込んだ。


見つかったら、と恐ろしくて

教科書を詰め込んで

取り出す時を逃したパンが

カビていた。


わたしには

一口しか噛み切ることも出来ず、

無理やり飲んだイカの天ぷらの

一欠片。

残りも、お道具袋に放り込んだ。



家に帰って、そのまま。

ひとりで

祖父の庭をぐるっと裏まで。


そこの木の下に埋めていた。




「食べ物」について

先生が言っていたことを思い、


この一連のことについて

誰にも言えなかった。


6歳のわたしには

「食べられないこと」

「それを隠して持ち帰ること」

「埋めていること」

それが怖くて。悲しかった。



ある日、祖父に見つかった。


わたしは、何も、うまく言えなかった。

黙っていた。



祖父はそこにしゃがんで、

「給食が食べられんのんじゃね。」

と言った。

「じいちゃんが、先生に言おう」と

いったけれど

わたしは「言わないで欲しい」と

心の底から頼んだ。


母にも父にも、誰にも。


いま思えば

祖父は本当に、悩んだと思う。



「じいちゃんに、言いんさい」

「食べられんことは、悪くない」

もし、これからも

ずーーっとこうなら、

じいちゃんが助けてくれる。

そう思った。



そして

祖父と一緒に埋めた、カビのパン。



記憶はいろいろ

薄れていくのかもしれないけれど。




祖父との記憶は

いろいろあって、

色も香りも覚えている。



一際


忘れることはない

「祖父とわたし」の庭の記憶。










じいちゃん、バニラは

蝶をとばしたりしています。














「モリのいる場所」から

バニラの散歩と、記憶のはなし。







では。