ある女性の物語🌸
昭和23年、私は福岡で生まれた。
6人兄妹の末っ子。
父親が亡くなった時、私は3才だった。
その時の記憶がある。
家に親戚の大人たちが集まっていて、布団に寝ている父の顔に白い布を被せてある。
大人たちは父の両側に並んで座ってる。
大人たちが私をかわいがってくれるから、私は楽しくてはしゃいでいた。
父の死後、母は外で働くことになった。
3才の私は、佐賀の田舎にある叔父の家に預けられた。
叔父の家には、近所の人たちがよく集まった。
私は、近所の大人たちに抱っこされると楽しくて、良く可愛がられた。
今思うと、叔父の家に預けられた幼い私を、大人たちはかわいそうに思ったのだろう。
ある日、いつものように近所の大人が集まって、いつものように私は抱っこされていた時、その大人は言った。
ウチの子供だったらいいね。
それを聞いた叔父が言った。
そんなにかわいいなら今日連れて帰っていいんだよ。
いやいや、そういうわけにはいかない。
正式な手続きをしないとね。
そうして、私が4、5才の頃に養子になった。
その家のお父さんは、私を大変かわいがってくれた。
反対に、お母さんはとても厳しかった。
服のたたみ方、挨拶、掃除、料理、所作など、毎日教えられて、うまくできなくて怒られた。
育ての母があんまり厳しくて、私は毎日怒られていたから、隠れて泣くこともあった。
しつけが辛くて実家に帰りたいと思った事もあったが、それを言ってはいけないと知ってた。
高校生の時、
育ての父が私に大学進学をすすめてくれた。
でも、私は裁縫の専門学校に行きたかった。
東京にいる叔母が東京の裁縫学校に来ないかと言ってくれた。
でも、私は福岡の学校に行きたかった。
福岡には兄姉が住んでいるから会えるし、父もそれを許してくれた。
父は、自分たちが死んだ後は兄妹で助け合って生きてほしいと私に良く言っていた。
高校卒業のち、
私は佐賀を出て福岡に住み、裁縫の専門学校に通った。
専門学校2年生の時、
育ての母が病気(ガン)で入院した。
通っていた裁縫学校は佐賀にもあり、転校する事が出来たので、すぐに佐賀に帰ることにした。
私は母の看病をしながら学校に通った。
佐賀に帰ることは、父に言われたわけではなく、自分でそう決めた。
二十歳の時、育ての母が亡くなった。
亡くなる少し前に、母は私にこんなことを言った。
私はずっと、あなたを辛い目に合わせてきた。
だから、私が死んだら、私をその辺に捨ててちょうだい。
だけどね、父のことを粗末に扱ったら許さないからね。
この時に思った。
ああ、母は父を私に取られたと思って嫉妬して、私に辛くあたってたんだ。
母は父と大恋愛の末、親に反対されたが結婚したのだった。
専門学校を卒業した後、育ての母が亡くなったので、1年くらい実家で過ごした。
実の母や姉たちと一緒に。
実の母や姉は、末っ子の私に何もさせようとはしなかった。
子供の頃と同じだった。
もし私が実家で母や姉たちと一緒に暮らしていたら、おそらく私は何もしなくて良かっただろう。
何もできなくて、何も知らないまま、今とは違った大人になっていただろう。
その1年間の体験のおかげで、育ての母が私を厳しくしつけてくれたことの感謝の気持ちがあふれた。
私は今も、育ての母にとても感謝してる。
私をかわいがって愛してくれた育ての父にも。