アジア・アフリカ会議博物館【Bandung①】 | sehari-hari~ジャカルタ生活日記と日本のインドネシアネタ

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2017年4月~インドネシアのジャカルタへ

ジャカルタのいろいろな情報話題を日記として記録→2022年8月に本帰国しましたが、
2023年9月から再度ジャカルタ生活へ

開いてる曜日と時間が限定されていて、以前タイミングが合わなかったこともあるし、インドネシア独立までの歴史を勉強してなかったのもあって

「タイミングも合わないし、いいかー」って行かなかった

 Museum Konperensi Asia Afrika

アジアアフリカ会議博物館

バンドンと言ったらまずはここだろー!って場所なんですが、

【開館】火•木•土•日
9:00〜12:00
13:00〜15:00
月水金と祝日は休館
ジャカルタは昼休みに閉めるところは少なくなりましたが、昼休憩もあるし
祝日はそもそも休みですが、今年のレバランも7日から16日までガッツリ休み
開館日と時間が絞られてる

1955 年のアジア・アフリカ会議の会場を、アジア・アフリカ会議 25 周年の時にスハルト大統領が博物館にしました。

アジア•アフリカ会議のために作った建物ではなく、3つの建物を連結しています。

↑の会議場だったGedung Merdekaは、

1879 年 6 月 にバンドンに住むオランダ人が、バンドンとその周辺に住むヨーロッパのエリート社交家、茶園の起業家やオランダ人将校などオランダ人が集まる場所として【Societeit Concordia】と呼ばれる協会を設立。

Verbodden voor Honden en Inlander」(犬と原住民の立ち入り禁止)という看板があって、インドネシア人がこの場所に立ち入ることが厳しく禁止されていました、

Merdeka Building に改装される前の元の建物

この協会は大きくなり、もっと大きな会議棟が必要になったので、

バンドン工科大学の教授で、オランダの有名な建築家2人が大規模な改修をしました。

日本統治時代には文化センターや、多目的会議スペースとして【大東亜会館】となりました。


【De Majestic】Braga通り沿いにある元映画館。 
1920年建築家CP. Wolff Schoemakerが設計
この映画館もヨーロッパ人のエリート専用で【Societeit Concordia】の一部でした。

1937 年頃、映画館はマジェスティック劇場に名前​​を変更し、1955年のアジアアフリカ会議に備えてコンコルディアの建物は改修され隣の建物を連結した造りになりました。

入場は無料ですが、Googleフォームで名前と連絡先の入力は必要です。

1955年4/18〜24まで29カ国が参加しました。
1955 年のアジア・アフリカ会議の代表者の署名の原本 。
独立後10年で、インドネシアが中心となった国際会議を開催する。
この時インドネシアが東南アジア周辺では目立つ国となっていたし、この頃は植民地だった国も多い、植民地時代が終わり、第三世界の結束などいろんな意味で意義ある会議だった。

アジア・アフリカ会議には、アジアとアフリカの歴史上の有名人が出席しました。

インドネシアのスカルノ、娘のガンジーと共に出席したインドのネルー、カンボジアのシアヌーク殿下、エジプトのナセル、中国の周恩来他など多くのリーダー達が出席しました。

会議のリーダーと代表団達は団結を強調するために、宿泊先ホテルであったSavoy Homannから会議場Gedung Merudekaまで、一緒に歴史的な行進をしました。


日本からは誰が出たん?

全然だれも知らん....えーんえーん
集合写真見ても、日本の代表が誰か見てわからない。

この時アメリカはこの国際会議には反対で、日本は総理大臣などトップは出席しなかった。

この博物館では、スピーチがうまいと言われているスカルノ大統領の会議での演説を音声で聞くことができます。

こんな歴史上の名士がいっぱいいるのに、ちょっとぎゅうぎゅう詰めじゃない???
って感じてしまう。

この会議場周辺のJl.Asia Afrika沿いにはAA会議に参加した国名が入った
石が並んでます。
日本のもあった!

所要時間30〜40分くらいかなぁー
博物館の展示スペースは小さいものだし、面白くはないのですが、
(バンドンといえば)というバンドンを代表する建物です。

 Museum Konperensi Asia Afrika
アジア・アフリカ会議博物館