お墓じゃなかった"Taman Prasasti"碑文博物館 | sehari-hari~ジャカルタ生活日記と日本のインドネシアネタ

sehari-hari~ジャカルタ生活日記と日本のインドネシアネタ

2017年4月~インドネシアのジャカルタへ

ジャカルタのいろいろな情報話題を日記として記録→2022年8月に本帰国しましたが、
2023年9月から再度ジャカルタ生活へ

こんたけ墓ばっかり行ってたらお墓シリーズですが、墓好きな訳じゃない


わりと定番のガイドブックにのってるようなところは行ってしまったので、仕方ない


新しく来た方には、読んでもおもしろくないだろう


ずっと読んでくれてる方から

「お墓シリーズ」と言われたので、シリーズになったのか...とお墓訪問記事が最近多いことに気づく


お墓がいっぱいあるとこに一人でいくのもなぁーとなかなか行かなかった博物館にWalking Tourに参加したときに行ってきました。

Museum Taman Prasasti

国立博物館からも歩いていけるのにはじめてきた。

1844年にオランダ領東インド政府の時代に建てられたドーリア式の博物館の本館

もともとはファタヒラ広場にあるワヤン博物館は教会で、VOC総督や奥さんなどのお墓がありまして、墓碑は今も残されてますが、そこが手狭になったためこちらに墓地が作られました。


1795年からお墓として使われましたが、マラリアで死者が増え、手狭になったため1974年には埋葬されていた遺体は別の共同墓地に移されて、ここには歴史ある墓碑や芸術性のある石碑を整理して残し博物館にしたらしい。

もう元の広さではなく、かなり縮小されたみたい


ワヤン博物館もそうですが、壁にレリーフとして嵌め込むかたちで墓碑を展示しています。

入口には見ておくと良い著名人の墓碑や、彫刻のモニュメントなどオススメのものが紹介されてます。

何した人か全員はわかりませんが

▪H.F. ロール博士(オランダ占領下のSTOVIAまたは医学部の創設者)


バダビア城内で亡くなった著名人、VOCの有力者は川を使って船で近くまで運ばれて、そこからはこの棺用の馬車でここまでパレードのように運んだそうで、この馬車は墓地として使われていたときに実際使用していたもの。

オリビア・マリアンヌ・ラッフルズの墓碑
オランダ領東インドとシンガポールのイギリス元知事 スタンフォード・ラッフルズ(ボロブドゥール発見したり、ボゴール植物園のもとを作ったりラッフルズホテルの名前にもなってる)の妻の墓碑

ガイドも参加者も「ラッフルズにはゴシップがある」って盛り上がってましたが、ラッフルズより10歳年上で、ラッフルズは二番目の旦那さんだったってこと?
そこらへんは何がゴシップかわかりませんが...
ラッフルズは、ボゴール植物園に死を悼んでLady Raffles というモニュメントをたてています

 

Soe Hok Gieの墓碑
これもみんな「ほーぅびっくりと反応してましたが、「だれだれ?」ってことで

Soe Hok Gieは、スカルノ大統領とスハルト大統領の政策を批判する声を上げてきた華僑系の活動家で、1962年から1969年に歴史を専攻し、インドネシア大学の自然愛好家のための学生組織の創設者の1人でした。
ソーは27歳になる誕生日記念に登ったジャワ島のスメル山で有毒ガスを吸い込んで亡くなりました。

 そんな有名な人なのか?

このように番号がついているのは、Kota Tuaの教会(今はワヤン博物館)から移されたもの
この墓碑には名前がありませんが、ドクロがついてるからフリーメイソンの会員だということらしい

アチェ戦争を仕掛けたときのオランダ軍の指揮官の墓碑

歴史ありそうだけど、オランダ語で書かれた碑文はどっからどこが名前で、名詞かどうかもわからない。
なんせ、ほぼ大文字で記されているので..
墓地の広さを縮小し博物館にするときに、歴史的価値のあるものや芸術性のある石像が残されたので、

ヨーロッパの庭園のようにも見えます。

これはバタビアでマラリアの蔓延で結婚したばかりの夫を亡くした新婚の妻の悲しみを表したものだそうで、訪れる人に悲しみを伝えるためにイタリアの彫刻家に依頼して作った大理石の像



これがちょっと変わった石碑で、
「裏切り者Pieter Erberveldの有罪判決記念碑
この場所に家を建てたり、木やレンガを敷いたり、この場所に何かを植えたりすることは永遠に禁じられています。 バタビア、1722年4月14日」
とオランダ語とジャワ語で書かれた碑文

VOCの記録によると、
Erberveldはバタビアの騎兵隊隊長でもあり、ジャヤカルタ王子の地域に住む裕福な地主でした。 
VOCはその領土を拡大し、Erberveldの土地を含むバタビアの土地を没収したいと考え、補償もなしに没収してしまいました。
Erberveldは、大晦日のパーティーでバダビアに住む全てのオランダ人の殺害計画を立てますが、この暗殺計画は奴隷によって総督にばれてしまい、12/29にErberveldの家で行われていた暗殺計画秘密会議に集まっていた全員が逮捕されます。

バタビア城の南側でErberveldを含めた17人が死刑になりました。
馬で手足を四方向から引っ張る四肢断裂の刑。
首も落とされたため、碑文の上には頭蓋骨が串刺しになっています。
これが最初にバタビアで行われたの大量死刑だそうですが、あとになって、実はこれはErberveldが邪魔だった総督がでっち上げて、計画的に行われた殺害ではないか?という疑いがある事件となっています。

この碑文のある壁はレプリカだそうですが、もともとこのErberveldの碑文が作られた家があった場所は取り壊されて、某日系自動車メーカーの販売店になっています。

他にも入口の見るべきポイント一覧にはいろいろありましたが、日本軍人の慰霊碑とか、逸話がある石碑だとわかれば博物館としてなかなか面白い展示だと思います。

Museum Taman Prasasti
タマン·プラサスティ博物館

PVアクセスランキング にほんブログ村">PVアクセスランキング にほんブログ村