quedate conmigo
これもAngelesの。
これは私の勝手な独断と偏見と想像ですが
なんというかこの曲を聞いているとラテン世界の恋愛事情
がこういうものなのかしら?って思えます。
多情にして、愛が深いんだか軽いんだかよくわからない。
言葉はやたら愛の表現を多用し
孤独に耐えれず、ひとりの時間を愉しむ方法を知らず、
ひとりのファム・ファタールを探して、あちらこちらで愛の言葉をささやく。
そんなかんじが私の勝手に思い込んでるラテン世界の恋愛事情です。
Quedate Quedate Quedate mi amor
Quedate Quedate Quedate conmigo
恋人よ、ここにいて、ここにいて、ここにいて
僕といっしょにいて、いて、いて
Ando buscando tu querer
Quiero que me quieras como te quiero
君に愛されることを探し続けてる
僕が君を愛するように僕を愛してほしい。
Regrame tu corazon
Yo ser tu fiel amigo
Y por las cosas del destino
Vamos a hacerlo sin compromiso
君の心をプレゼントして
僕は君の忠実な友達になろう。
これらは運命だよ。
約束はなしでしよう。
この歌詞、初めて読んだ時は笑えました。
私にはかなり不実に聞こえるんですけど
なんとなくこのかんじが話に聞くラテンの恋愛事情?!
この適当にして言葉は重い、
行動は軽く、不実なんだか真剣なんだかわからないルーズな空気。
でもそれもまたよし!今楽しめることを楽しもう!っていう
刹那的な。明日も永遠もなし!絶対なんてこの世にない的な。
私は全く違う文化圏に育っているので勿論理解できません、
ラテン文化もラテンの恋愛事情も。
が
こういうのはこういうので悪くないって思います。
こういう適当な不実な空気も必要な時もあります。
みんなが真剣で神経質で永遠と絶対の世界に住んでたら苦しいでしょう?
amor amor
これもAngeles
こちらはCharlie Zaaという歌手とのコラボのようです。
これは私の個人的な意見なのだけど
AngelesはAngelesだけで歌うより、他の歌手が入ったほうがいいなぁって思います。
この曲はAngelesだけで歌ってるのもあるけど
Charlie Zaaが入ったほうが、Angelesの魅力が引き立つ気がします。
低めの歌声のAngelesと高くつきぬける甘い歌声のCharlie Zaa
その対比がお互いの歌声の相乗効果を出してるみたい。
そしてcomo los quieroのÑejoのようにAngelesよりさらに低い声の歌手との
組み合わせもまたよくて、
面白いなって思います。
さて。
このamor amorはcomo los quiero と違って
シンプルでとてもわかりやすい歌詞。抽象的なところは一切なく
切ないくらいに一途に恋人を想う歌詞で、演歌の世界のよう。
mi vida sin ti es una fracaso
あなたなしの私の人生なんて敗北
とか
Solo una mirada
No pido nada solo quedate
ただ見ていたいだけ。何も求めないから側にいたいだけ
とか
tengo muchas ganas de quererte
あなたをとても愛しているの。
とか
mi cuerpo desea tu piel
私の身体があなたの肌を求めてるの
とかとか・・・
ラテン版演歌の世界でしょう?
またPVに出てくる典型的ラテン美人が
これまた典型的ラテン金持ち風、鳩胸の小デブを
一途に追いかけるところが切なくなりますね。
筋骨隆々のラテン若者でいいじゃん、ダメなんだ?!
como los quiero
音楽はほとんど聞かないのですが
Angelesというグループのサルサは声やリズムやメロディ、歌詞がなかなか私のツボで
スペイン語の練習にたまに聴きます。
この曲も一時期よく聴いていました。
どうやらÑejoというアーティストとのコラボレーションのよう。
この歌詞、俗語も含まれていてなかなか難しくてきちんと理解できないのですが
聴き手の想像にゆだねるところがある文学的な歌詞。
このlosという指示代名詞は、彼らにとって何を指し示すのか
それらを望んでいても決して口に出せない。
彼らにとってのそれらは何なのか。
たぶん、望むことと現実が違いすぎて、望みを口にさえ出せない。
誰もがそうであってほしいと思っているけれど
だけどそうできずに生活してる。
なんて想像しながら聴いています。
全然違ったりして笑。
諦念
私ひとりの時や娘といっしょのときはながしのタクシーを使わないように。
と夫にきつく言われています。
基本的にはバスが私の足ですがどうしてもバスが億劫な時があります。
それで衛星タクシーに家まで来てもらうように頼み、20分で来るということでしたが
1時間経っても来ません。そのあいだ私は3回ほど催促の電話を
しましたが
「もう少しで着きます。」
と言われて、でも来ません。
私の言い方が悪いのかと思い、大家さんにお願いしてまで(笑えるでしょう?)
大家さんにうちの場所を説明してもらいました。
というか大家さんがなぜか私のかわりに文句まで言ってくれてました。
「1時間も待たせるってどういうことなの?
だから何々通りよ。大通りを下に下って、そこを引き返して真っすぐ、
何ブロックを曲がって門の中に入ってきて。門は閉まってるけど門番が開けてくれるから
そこから真っすぐつきあたりがうちのある通り。え?門の前にいる?
いいえ、青い車なんてありませんよ。は?そこどこなの?」
そんなかんじで埒があかず。タクシーは来ず
待ち合わせの時間には間に合わずでした。
1時間も待たせて、謝らないこと、時間通りに着けないのに着けない旨を電話もしないこと、
タクシーぐらいもスムーズにいかないこと。
でも、腹も立たないのです。
こういうときひとつの言葉が思い浮かびます。
「諦念」
いいえ、私は決して真理をさとるという意味でこの言葉を思い浮かべるわけではなく
あきらめているという意味で思い浮かべます。
そうして、寂しい気持ちになります。
だって、そもそも自分が期待もしていないから、腹が立たないから。
タクシーの一件だけじゃないんですよ。一事が万事なの。
期待して失望する。期待して失望する。期待して失望する。
期待するから失望するのなら、自分が裏切られた気持ちになるのなら
そもそも期待なんてしない。
「諦念」と「受け入れる」ことは違います。
似てるけど、違います。
何が決定的に違うと思います?
「愛」
そこに愛があるかないか。
残念ながら私は「受け入れてる」わけでなく
「諦念」でやり過ごしているのだから、それはなんて寂しいことなんだろうって
思います。
自分が暮らす場所に愛をかんじないなんて、さみしいでしょ?
*
私は若いころ、「諦念」という概念をもっと美しい概念だと思っていました。
でも若いころの私が「諦念」という概念をいかに美化して捉えていたか
いまはわかります。
この国に1年留学していた若い子が最近、またここに遊びに来て
感想に「この国のスケールに圧巻」と。
その新鮮で瑞々しい捉え方が私には眩しいくらい。
もちろん、実際に暮らすことと、期間限定で暮らすことの違いがあるにしても、
眩しい。
彼女がもう私が失ってしまったものを持っていることが眩しい。
砂の女、追記
砂の女を読んだ後の、なんともいえない、あの嫌な感じ、
切なさは
どうしてなんだろうと考えたとき、
結局、ひとつの考えにたどり着いてぞっとしました。
砂の女のあらすじは簡単で
昆虫採集のために迷い込んだ男を
部落全体で仕組んで砂丘の底にある、家に軟禁して、その家に住む女と一緒に
来る日も来る日も砂かきをさせる(砂かきをしないと砂で家がつぶれてしまうから)
男は反抗し、何度も逃げ出そうとしますが逃げ出せずに結局砂の家に順応していきます。
状況の不条理さも勿論のこと
嫌なのは、どう考えても人間の住む場所とは思えないうえに
意味のないと私には思えるその砂がまたたく間に降り積もる家(非効率で、不衛生で、不快な場所)に
主人公が抵抗しながらも結局、慣れていってしまうこと。
抵抗疲労なのか、自分の精神の均衡を保つためなのか
(つまりそれが順応、慣れるということなのだろうけど)
幸福さえ感じ始めること。
「いまのわたしみたい。」
そう思ってしまったことにぞっとします。
自分が知らず知らずのうちにもう取り返しのつかないことをしてしまったみたいに。
自分が気づいたらもう引き返せないところに来てしまったみたいに。
どう見ても、その場所は幸福じゃないのにその場所に徐々に降参していく・・・、
別の言い方をするならば、自分の人生を受け入れていくと言えるんでしょうか。
物語の中で男がその砂の家に住む女と関係を持った時点がたぶん男が降参する
(つまり不条理な状況を受け入れる)暗示なんでしょう。
そして怖いのは、男が女と関係を持たない選択だってできたということです。
けれど砂丘の底の家に二人きりという状況に、彼に何ができたでしょう。
選択できるけれど選択できないという状況です。
物語の最後のほうに男は逃げれる隙があったのに結局逃げずに終わります。
もとの生活の方に疑問を持つのです。
戻ってどうする?というように。元の場所が確かに幸福なのか?と。
怖かった。本当に。
「運命を受け入れる」ということの本当の怖さを見てしまったみたいに。
文面の奇麗さを裏切る醜さと残酷さを見せられたみたいに。
選択の恐ろしさを見せられてしまったみたいに。
そして、考えがそこにたどり着いてしまう自分に。
でも私は
若いころ読んであまり理解できなかった
カミュの「異邦人」も
カフカの「変身」も
今になってみて少しだけ理解できたような気がしました。
砂の女
ブランチ中に安部公房の「砂の女」の話題になり、
しかしながら、私は読んだことがなかったので
読んでみました。電子書籍で。
電子書籍は便利ですね。嵩張らないし、場所もとらず、なかなかすぐに日本の本が
手に入らない異国住まいの邦人にはぴったり。
けれど、やはり紙の本のほうがいいなあ。
装丁を楽しめるし、ページをめくる音や、紙の感触なんかも。
ガティとふたりで暮らしていたころは、私が本を読んでいる最中、本の上に香箱座り
をして、邪魔してきました。そんな他愛のない、私の本にまつわるエピソードも。
*
さて、なんでそんな話題になったのかしら。
思い出せないのだけれど
ブランチ中、彼女に「砂の女」を読んだことがあるか問われ
「あれを読むと人間て慣れるんだなって思うの。」
と言っていたのが印象的でした。
安部公房、読みましたがやっぱり苦手。
文のリズムについていけなくて
あの無機質で、無国籍(だからこそ広く世界で翻訳されるんでしょうね)なかんじに
馴染めず
「砂の女」もやっと読めました。
読んだ感想は、彼女と全く同じ。
最初、どんなにその環境が嫌で逃げ出そうとして、もがいても
それが不可能だと知ると人間はそこに順応していって幸福をかんじ(ようと?)るように
なるんですね。
そして今まで自分がいた場所は確かに幸せだったかと問いただす。
「砂の女」を読んでいたら、なんだか切ないというか、なんともいえない気分になりました。
artesania
たまーにInka Plaza(お土産屋さんが軒を連ねているところ)に行きます。
いろいろなものがあるので見てるだけで楽しいので。
写真の小銭入れは、たまたま行ったときにみつけました。7ソレス(約210円)で
廉価なのに縫製がしっかりしていたのと、ペルーらしい色合わせに惹かれました。
さて、今月は私のビザの更新月なので夫がいろいろ、ほぼ全部やってくれてます。
仕事で忙しいのに、すまないねぇ。
相変わらず非効率なペルーのお役所仕事に夫は不満をもらしてました。
良い教育が良い教育を生むように洗練されたサービスが洗練されたサービスを
生むんだろうと思うので
いつも思うのは、この人たちきっと洗練されたサービスを受けたこと
ないんだろうなって。
もちろん、サービスのよいところもたくさんあるけれど。
日本にいると大体どこでも子供のころからマニュアル化された、
過剰ともいえるような洗練されたサービスを
受けることができるけど
ここはそうじゃないもんね。
そう思うと、この非効率的なサービスもまぁ、しょうがないねーって思えてくる。
*
ところで日本だってたぶん2・30年前のお役所のサービスは非効率だったんだろうと思います。
手元にないし、前に読んだ本なので正確に覚えてないけど
姫野カオルコの「ひと呼んでミツコ」
に日本のお役所の非効率さがブラックユーモアたーっぷりに書かれて笑えますよー。
これ読んだら、非効率なサービスにも腹立たなくなる・・・・かな???