先日テレビでナンジャモンジャの木の花が見ごろということで話題になっていた。この木は大変数が少なくて、東京の明治神宮外苑にあったのが知られていたそうだ。ここはそのまた昔は青山練兵場で、永井荷風が『日和下駄』で紹介している。しかしこの当時の木はその後枯れてしまい種を採って殖やした木が今は関東各地に広がっているそうだ。

 

荷風の名が出たところで日頃不思議に思っていることに移るが、ブログにログインして「ホーム」を開くと、運営局が「アクセス解析」というのを教えてくれる。昨日までの一週間でアクセスの多かった記事などを教えてくれるのだが、2016年4月に掲載した「偏奇館のことなど」がいつも含まれていて、先日はトップになっているのに驚いた。

 

この文章はずいぶん長いので荷風に関心が深くないとあまり読む気にならないと思うのだが、なぜかいつもアクセス数の多い記事にその名を見るのが不思議でならない。どんな人が読んでくれているのだろうかと思っていた時に、偶然書店で『「東京文学散歩」を歩く』という本を目にして手に入れた(藤井淑禎 ちくま新書 2023年7月)。

 

この本は近現代文学の作者や作品に関する東京の文学散歩の本を幾種類も残した野田宇太郎(1909-84)の本を丹念に読み、実際に歩き、論じた珍しい本で、私の体験ともずいぶんと重なるので興味深く読んだ。

 

野田の文学散歩は、最初は『日本読書新聞』に連載されたが、それがまとめられたのが『新東京文学散歩 増補訂正版』(1952 角川文庫)、『新東京文学散歩 続篇』(1953 角川文庫)になる。私が持っているのもこの2冊の本だが、その後も野田は精力的に調べる、歩くをくりかえして次々と文学散歩の本を出版した。

 

******

 

では、偏奇館の辺りについて野田が書いているのを読んでみよう。

 

「三河台町へ向う電車通りから右へ入って、麻布小学校の前を通ると、その道とT字形に市兵衛町となる。その通りの一部焼け残った街を右へ曲って、経済安定本部総務長官官舎の表札のある豪勢な大邸宅の前にさしかかる。(中略)先に進むと、市兵衛町巡査派出所がある。道は左へ広く、やや高くなっているのを幸いに、長官官舎に尻を向けて桜並木のその道を約四五十歩、左側の低地になった焼けあとの新家屋をみながら進む。左へ折れる片側道の下り坂に入る。すぐに正面の焼けあとにつき当る。左端は石垣の小高い崖になって下の民家へ続いている。その石垣の上は茂るにまかせた一群の笹薮のさざめき。その藪の右側に、麻布市兵衛町一ノ六難波治吉、と表札のある、新しい平屋の住宅が建っている。ここが、私のたづねる永井荷風の偏奇館の焼けあとである。

 

荷風が大正七年に大久保余丁町の断腸亭を人に譲り、一時築地二丁目三十番地に仮寓して、そこから此の地に洋風の木造二階建のささやかな偏奇館を新築して移ったのは大正九年五月、四十二歳の時であった。爾来今度の戦火にかかるまで、約二十五年を住んだ場所である。」(文章の一部を常用漢字、現代かなづかいに直した。P.205-6)

 

ずいぶんと丁寧な道案内には驚くが、それにしてもたどり着いた難波宅が、偏奇館のあった場所だという断定の根拠になにも触れていないのはなぜだろう。焼ける前の偏奇館は何度も訪ねているからその場所は熟知しているということなのだろうか。もう一つは、偏奇館は荷風が建てた新築の洋館だったのだろうか、ということである。

 

荷風は「偏奇館漫録」で次のように述べている。

 

門を出で細径を行く事数十歩始めて道路に達す。細径は一度下って復登る事渓谷に似たれば貴人の自動車土を捲いて来るの虞なく、番地は近隣一帯皆同じければ訪問記者を惑はすによし。偏奇館甚隠棲に適せり。(『荷風全集』第14巻、岩波書店) 

 

自動車が入れないような狭い道で、辺りはみな同じ番地だから隠れ住むのには最適だと言っている。だから焼ける前の偏奇館を何度も訪ねたりしていないとその場所を特定するのは難しいと思うのだが(注)。また、映画「濹東綺譚」の監督新藤兼人が著書『「断腸亭日乗」を読む』で、「どうやら一坪五十円で買ったようです。土地は九十九坪、建坪は三十七坪の二階建てです。外人が住んでいたのに手を入れて新築同様にしたといっています。」(岩波現代文庫 2009)と書いているので新築とはいえないだろう。

 

******

 

東京の中心部(23区)は、西から広がっている武蔵野台地の末端に位置し、低地の下町には川と運河が、台地の山手には下町と結ぶ坂道が無数にあり、複雑に切れ込む大小さまざまな谷間にも人が住む世界でも珍しい大都会だと言われる。江戸城は(現皇居)はこうした地形を巧みに利用して築かれ、江戸・東京の町の景観も生まれた。

 

『「東京文学散歩」を歩く』の著者によると、野田宇太郎が初めて偏奇館跡を尋ねた時には気づかなかったようだが、その後飯倉片町から市兵衛町に向かった時に我善坊谷町の眺めに感動したことが野田の『改稿東京文学散歩』に書いてあるそうだ。

 

「ほぼ東西に楕円形になった谷間の住宅街」の「中央を縦に一筋、串のように道が貫いている」。野田はその道をゆっくりと歩く。「南側は飯倉町の丘で小学校ビルにつづいて郵政省ビルがそびえているし、北側はもと市兵衛町の丘なので、陽陰の町という感じがする」。市兵衛町へ行くのが目的の野田は、小さな十字路を左へ曲がり、坂道を登り始める。

 

「坂の道幅は狭く勾配はかなり急で、いそぐと息切れを覚える。一歩一歩我善坊谷の町のいらかが眼下にひろがってゆく。一本の桜のかげで歩みをとめた。こんなたのしい逍遥の坂道があり、坂道の下に忘れられたような谷間の町が眺められるのも、麻布なればこそだと思った。」」(『「東京文学散歩」を歩く』p.194-5)

 

高度経済成長の時代以降この麻布周辺も急速にその姿を変えていった。都電の走っていた坂道(谷)から電車が姿を消して高速道路ができ、それが道源寺坂の前あたりで2つに分かれて、大きな道と高速道路が町の中に新しくでき、ビルやマンション、ホテルが次々と建つ再開発が進められて、町の姿は急速に変貌していった。それでも我善坊谷町は2019年頃まではその姿をとどめていたようだが開発の波にのまれて町名も今は麻布台1丁目、市兵衛町は六本木1丁目となり、由緒ある地名はたんなる記号のような地名となってしまった。

 

偏奇館跡を尋ねて永井荷風の面影を偲ぼうとする人は、道源寺・西光寺の脇の道源寺坂を下って市電(都電)停留所福吉町に出て、銀座や下町に向かう荷風の姿を『断腸亭日乗』の次の一節から思い描くことくらいしか出来ないだろう。

 

「黄昏銀座に往かむとて道源寺阪を下る時、生垣の彼方なる寺の本堂より木魚の音静に漏れきこゆ。幽情愛すべし。

 梅が香や木魚しづかに竹の奥
 木魚ひびく寺の小径や梅の花  (1934. 2.18)

 

道源寺坂は市兵衛町一丁目住友の屋敷の横手より谷町電車通へ出づる間道にあり。坂の上に道源寺。坂の下に西光寺という寺あり。この二軒の寺の墓地は互に相接す。西光寺墓地の生垣は柾木にてその間に蔦と忍冬の蔓からみて茂りたり。五、六月の交忍冬の蔓には白き花さき甘き薫りを放つ。花の形は図に描けるが如し。(1935. 6.3)

             

隣家の梅花満開なり。道源寺阪下西光寺の庭にも梅花星の如し。」(1938. 3.17) 

 

)野田宇太郎が登記所に行って登記簿で所有権の移転、公図で位置の確認をすれば、荷風が偏奇館の土地を処分したことは確実なのでその場所を特定することができるのではないかと後に考えた。

 

その後『断腸亭日乗』の1919 大正8年11月13日に「市兵衛町崖上の地所を借る事に決す」とあるのを思い出し、戦災にあうまでそのままならば登記所に行っても荷風の名は出てこないので、その場所を特定することは難しいのではないかと思った。とすれば、新藤兼人の「一坪五十円で買ったようです。…」はどう理解したらいいのだろうか。また、野田はどのようにして偏奇館の焼け跡を特定できたのだろうかと思う。 2024/6/3

 

 関連記事 → 偏奇館のことなど 

 

 

 

 

 

 

 

庭のスダチの木の下に咲くセッコク

薄いピンクの大きな花が美しい