偏奇館のことなど <荷風忌に寄せて>
 
関東大震災と戦災によって東京の姿は大きく変貌したといわれるが、それに追討ちをかけたのが東京オリンピックの頃、高度成長期の都市大改造であった。さらにその後の超高層ビルや高層マンションの建設による再開発の動きによって、東京の古い町並はほとんど失われたかに思われる。
 

 
緑と水の豊かな江戸時代の町の様子を懐かしみ、東京の下町の風情を好んだ永井荷風だったが、26年間住んだ偏奇館は山の手の麻布にあった。
 
川本三郎の 『荷風と東京』(都市出版、1996年)を読んで、偏奇館がサントリーホール1986年開館)のすぐ近くにあったと知った時は大変驚いた。すぐ前を高速道路が走り、大小のビルが建ち並ぶ周辺の様子からは荷風が住んでいた頃を想像することは到底できなかった。
 
偏奇館があったという場所に行ってみた。泉ガーデンタワーという高層ビルの裏手の道路に面して教育委員会の小さな説明板があったが、崖に面して町を見下ろす位置にあったと思われる偏奇館とその周辺の様子を想像することはとても難しい変りようだった。(写真)
 
しかし、『摘録断腸亭日乗』(岩波文庫、1987年)にも登場する車の通れない狭い道源寺坂とその脇の二つのお寺が今もあることを知って、荷風が住んでいた頃の偏奇館や周辺の様子を探ってみようと思い立った。
 

 
永井荷風が偏奇館に住むようになったのは1920(大正 9)年 5月で、余丁町の断腸亭を出て一時築地に住んだ後のことである。台地の上で眺めがよく、近くの大きな屋敷の緑の豊かさと静かな雰囲気が気に入ったからであろう。建物はペンキ塗の箱のような洋館で、新築ではないが大幅に手を入れて気に入った造りにした。敷地は広くはないが大きな椎の木をはじめ草木が植えられた庭があって荷風を楽しませた。『断腸亭日乗』 に次のように書いてある。

 芝愛宕下西洋家具店に至る。麻布の家工事竣成の暁は西洋風に生活したき計画なればなり。日本風の夜具蒲団は朝夕出し入れの際手数多く、煩累に堪えず。(1920 大正9 1.3)

 この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。(1920 大正9 5.23)

 偏奇館の窗に倚りて対面の崖を眺むるに、新樹の間に紫陽花の蒼白く咲き出でたる、また枇杷の実の黄色に熟したるさま、田家の庭を見るが如し。(1920 大正9 6.19)

 また、『偏奇館漫録』(『荷風全集』第14巻、岩波書店) にも次のようにある。

 庚申の年孟夏居を麻布に移す。ペンキ塗の二階家なり因って偏奇館と名づく。内に障子襖なく代るに扉を以てし窓に雨戸を用ひず硝子を張り床に畳を敷かず榻を置く。旦に簾を捲くに及ばず夜に戸を閉すの労なし。冬来るも経師屋を呼ばず大掃除となるも亦畳屋に用なからん。偏奇館甚独居に便なり。  門を出で細径を行く事数十歩始めて道路に達す細径は一度下って復登る事渓谷に似たれば貴人の自動車土を捲いて来るの虞なく番地は近隣一帯皆同じければ訪問記者を惑はすによし。偏奇館甚隠棲に適せり。  偏奇館僅かに二十坪庭亦狭し。然れども家は東南の崖に面勢し窓外遮るものなく臥して白雲の行くを看る。崖に竹林あり雨は絃を撫するが如く風は渓流の響きをなす。崖下の人家多くは庭ありて花を植ゆ。崖上の高閣は燈火燦然として人影走馬燈に似たり。偏奇館独り窓に倚るも愁思少し。  屋後垣を隔てて隣家と接す。隣家の小楼はよく残暑の斜陽を遮ると雖晩霞暮靄の美は猶此を樹頭に眺むべし。門外富家の喬木連って雲の如きあり日午よく涼風を送り来って而も夜は月を隠さず。偏奇館寔に午睡を貪るによし。たまたま放課の童子門前に騒ぐ事あるも空庭は稀に老婢の衣を曝すに過ぎざれば鳥雀馴れて軒を去らず階除は払ふに人なければ青苔雨なきも亦滑らかに虫声更に昼夜をわかつ事なし。偏奇館徐に病を養ひ静かに書を読むによし。怨むらくは唯少婢の珈琲を煮るに巧なるものなきを。  余花卉を愛する事人に越えたり。病中猶年々草花を種まき日々水を灌ぐ事を懈らざりき。今年草盧を麻布に移すやこの辺の地味花に宜しき事大久保の旧地にまさる事を知る。然れどもまた花を植えず独窓に倚り隣家の庭を見て娯めり。
(1920・21 大正9・10)
 
 荷風の説明によると、ペンキ塗の事務所のような洋館だから 「偏奇館」 と名付けたというが、家の主人が 「偏奇」 な性格だからといった意味もあったのだろう。生活は洋風に徹するために畳・障子の類は一切なく、近くの家具店から机や椅子を買い入れたとある。庭は20坪ほどだが近隣に緑が多く、眺めもよいので大いに慰められる。花卉が大好きなのになぜ植えないかというと、「虫を除くの労多きを知るが故なり」 と書いているが、実際には好きな草木が少しずつ増えていったようである。  
 
 なお、庭が20坪ほどとあるが、映画 「濹東綺譚」 の監督新藤兼人の 『「断腸亭日乗」を読む』
(岩波現代文庫、2009 )に、「どうやら一坪五十円で買ったようです。土地は九十九坪、建坪は三十七坪の二階建てです。外人が住んでいたのに手を入れて新築同様にしたといっています」 とあるので、結構広い庭だったようだ。
 

 
 では偏奇館はどのようなところに建っていたのだろうか。
「東南の崖に面勢し窓外遮るものなく臥して白雲の行くを看る」 「隣家の小楼はよく残暑の斜陽を遮る」 とあるから、おそらく何軒かの家が建つ北の方に延びる崖の上に西南を向いて建ち、小さな谷の向こうには崖を望むことが出来た。近くの道路からの道は狭くて高低があるので自動車は通れず、しかも近所はみな同じ番地なので 「甚隠棲に適」 していると大いに満足している。
  

 
偏奇館はどのような建物だったのだろうか。
 よく紹介されるのは荷風が撮影したという庭の樹木に半分隠れた洋館の写真である。下見板の外壁、上げ下げ窓の2階部分が主に写っている。この写真は作品集 『おもかげ』
(岩波書 店、1937) に収められた荷風撮影の写真24枚の1枚である(写真)。また、秋庭太郎の 『考証 永井荷風』(岩波現代文庫、2010) の下巻掲載の写真には荷風の姿が建物と一緒に写っている。

 こうした何枚かの写真では残念ながら建物の全体の姿を知ることは出来ないが、『荷風全集』 第14巻の 「月報」 に荷風が描いた絵が紹介されているのを発見した
(写真)。説明するまでもないが、箱のような建物の上には寄棟の瓦屋根がのり、南側には玄関が、東側には建物の一部が突出ている。玄関の脇には大きな木があり、柵の向こうには木の頂が見えるので、家は崖の上に建っていることが分かる。大木は椎の木だろう。


 
 
 
では、内部の造りはどうだったのだろうか。
 図面の有無は知らないが、先の秋庭太郎の本に非常に具体的に説明した文章が引用されているので紹介する。

 菅原明朗稿本 『荷風罹災日乗註考』 に偏奇館内の構造が詳記されている故ここに掲録する。すなわち曰く、「玄関はやっと一人か二人が立てるくらいの低い石段があって、雨よけなぞ出来そうもない名ばかりの庇に片開きの扉が一枚。この扉はガラスがはまっていて、ステッキ一本あれば打きこわせる程度のもの。これを開けると一畳そこそこの土間があって、直ぐ正面に二階へ上る階段。この階段にそった左は真直な廊下で、そのつき当りが台所。台所は家不調和に広かった。台所の右は勝手口へ、左は風呂の焚場に通じている。台所の手前を廊下は左へ折れて湯殿と女中部屋に通じ、玄関正面の階段の左にドアーがあって、これが書斎の入口になっていた。書斎に入って右手の奥が小さな書庫になっている一室である。上下共にベランダもサンルームも無い総二階だったので二階は階下よりも間取りが広く、納戸、書庫、寝室の三つに割れていた。その名の如くペンキ塗の何の趣きも無い実用一点張りの家であったが、庭に樹が多かったので、其れとの調和に明治の時代を思わす情趣があった。塀と門は頗るお粗末なもので、板の切れ端しの様なものに永井とのみ書いた表札が一本の釘で打ちつけてあった。」
(p.317・18)

 平面がほぼ四角だからこの説明で内部の様子は十分想像できるが、訪問記を読み写真を見ると一層はっきりしてくる。雅川滉「偏奇館訪問」(『荷風全集』別巻) には次のように書かれている。訪問したのは1934(昭和9)年である。

 やや初夏の香のしはじめたある日曜日の朝のことだ。広い並木道の上にはその新緑の鮮かに映えた、鬱蒼とした樹木が蔽ひかぶさって、某宮家の高い塀が静かな空気のなかへ長々と伸びてゐるのであった。その宮家と反対の側に細い坂道が切れてゐて、その坂道を下って行くとすぐ突き当りに、墨痕の既に消えかかった小さな標札に永井とかすかに読まれるだけである。わたくしたちは潜り戸をあけてなかへ這入った。二階建の洋館といっても、鎧扉の古風なペンキの剥げかかった偏奇館はすぐ目の前に深閑として佇んでゐる。あたり一杯の植込には無雑作の作為が籠められてゐるのであらう。
(中略) 通されたのは階下の応接室である。古びた籐椅子に腰を下ろすと、既に西に廻った日の光は、窓硝子を斜にわたくしの眉間へギラギラと挑んできた。半分開いてゐる戸棚から鴎外全集が覗いてゐる。その本の背の金文字も日の反射を受けて、わたくしの眼を意地わるく襲はうとするのである。
 
 

 
また、前記の 『おもかげ』 には荷風の撮った台所の流しと書斎の写真がある。書斎のテーブルの上にはワインとグラス・食器が置かれ、籐椅子の背後には書棚が写っている。まるで油彩の静物画を見るようである。写真の下には 「葡萄酒の栓ぬく音や夜半の冬」 「秋雨やひとり飯くふ窓のそば」 と自作の句が添えられている。なお、写真にはこの外に浅草や深川・玉の井など荷風が親しんだ街のスナップがいくつもあるが、今となっては貴重な記録というばかりでなく、荷風の作品に漂う抒情性を写真にも感じたのであった。(写真は 『おもかげ』 より)

 『断腸亭日乗』 の一節に、「霊南坂を登るに坂上の空地より晩霞の間に富士の山影を望む。余麻布に卜居してより二十年いまだかつて富士を望み得ることを知らざりき。家に至るに名塩君来たりカメラ撮影の方法を教へらる」(1937 昭和12 2.3)。「帰宅後写真現像を試む」(1937 昭和12.5.12) とあるのを読んで、カメラがまだ普及していない当時は大変だったのだと思っていたら、先の新藤兼人の本に、荷風の持っていたカメラは当時150円もしたローライコードで、実は他人には見せられない写真を撮っていたからだと書いてあった。そういえば現像の記事の日には玉の井へ行っている。また、縁の深かった関根歌が荷風の没後に書いた文章には荷風の覗きの趣味について具体的に書いてあるので(「日蔭の女の五年間」 全集別巻)、新藤の指摘は当っているのかも知れない。

 この関根歌は上の文で、偏奇館を訪ねては一緒に散歩したことなどを懐かしんでいる。荷風の関係した女性の中ではもっとも長く付合いがあり 『断腸亭日乗』 にもよく登場している。

 お部屋はというと、一階に四畳ほどの日本間がお風呂のそばにあるだけで、あとは全部洋間でした。二階の書斎には本がぎっしり並んでおりましたが、その中でもとくに鴎外先生の全集が一番目のつくところに飾られているのを、印象ふかくおぼえております。応接間は下にありましたが、なにか閑散としていて人間のいない住居のような感じでした。春になると、門から玄関のところまで植えられた沈丁花のすばらしい香りがなんともいえず、お宅から二、三丁さきからぷうんと匂ってくるほどでした。なつかしい麻布のお宅でした。


 先の雅川滉の訪問記からは当時の元気な荷風の様子も窺える。応対に出た女中の話では 「通常正午に起床すること、起きるとパン、珈琲の類をとって、午後は読書したりまた再び午睡を貪ったりすること、夕六時過ぎに必ず食事をとりに外出すること、帰りは多く十二時頃になる」 といった生活ぶりだった。

 突如階段に足音がして、またたく間に荷風氏の長身は黒い洋服、素足にスリッパといふ出立であらはれた。「やあ」 と鼻にかかった声である。漆黒な髪が低く下がる。四五度も荷風氏の腰は殆ど直角に近く曲げられた。鄭重な、やや下町風な挨拶の仕方である。あるひはまた、近代的儀礼に則ったのであらうかなどと考へながら、わたくしは仰いではその漆黒な髪、艶のある顔色を、膝に置いた手の甲の老人めいた皺と比べ合せて驚歎した。恐らくは芥川龍之介氏がその三十幾歳のときの顔よりも遥かに若々しいであらう表情がそこにあるのだ。市井作家を以て任ずる生々しい表情が溢れてゐるではないか。
     

 
 『断腸亭日乗』 には偏奇館の窓から描いたスケッチがある。屋根だけ描かれた崖のすぐ下の家には花が咲き、「崖下箪笥町人家梅花満開」 と注記。その向こうには 「審美書院」 の建物と 「写真撮影所」、建物は偏奇館と同じような洋館だ。そういえば、隣の邸宅もおしゃれな洋館だそうで、外国人の住む隣家も洋館だろうから、この辺りには洋館が多かったのかも知れない。さらにその先には何軒かの家や空地があり、「人家裏手」 と注記。空地の向こうには自動車が走り、「市兵衛町二丁目道路 此処ヨリ霞関議事堂見ユ」 と書いてある。その左には大きな建物が描かれて 「山形ホテル」 とある。建物の下は石垣と樹木だ。これでこのスケッチは偏奇館から西南の方を眺めたものと分かる。絵の左にはさらに 「壬申二月病臥二旬余無聊暫シ病室窗外ノ景ヲ描写シテ僅ニ悶ヲ遺(わす)ル 荷風病叟」 と書いてある。(1932 昭和7 3.4)

 このスケッチのお蔭で偏奇館の建つ崖の下の様子が具体的に分かるが、と同時に低地の家並を見下して空が広々と広がるいかにも気持よさそうな大きな眺めも想像させてくれる。

 「空霽れわたり、窗前の喬木に弦月懸りて、暮靄蒼然、崖下の街を蔽ひたり。英泉が藍摺の板画を見るが如し。これ同じ山の手にても、大久保の如き平坦の地にありては見ること能はざるの光景にして、予の麻布を愛する所以なり。」
(1925 大正14 12.21) といった 『日乗』 の記事を見ても、荷風がいかにこの崖上からの眺めを愛していたかが分かろう。

 『断腸亭日乗』 にはまた四季折々の庭の草花や周辺の様子がしばしば書かれている。それは、「余花卉を愛する事人に越えたり」 と書いた荷風らしい細やかな観察による美しい文章で、それを読む者はその場に一緒に居るような気分になる。

 窓前に茂りたる椎の木かげに山茶花の一輪、紅の色も濃く始めて開き出でたり。秋草は既に枯れ、菊はなほ開かず、柿の実は取尽され、桐の葉は反古紙の如く醜く萎れて重げに落る時、この山茶花の紅一輪は、あたかも糸の如き三日月の影を夕雲の間に望みたる淋しさにも譬ふべし。
(1933 昭和 8 10.24)
 

 
黄昏銀座に往かむとて道源寺阪を下る時、生垣の彼方なる寺の本堂より木魚の音静に漏れきこゆ。幽情愛すべし。
   梅が香や木魚しづかに竹の奥
    木魚ひびく寺の小径や梅の花  
(1934 昭和 9 2.18)
 
 道源寺坂は市兵衛町一丁目住友の屋敷の横手より谷町電車通へ出づる間道にあり。坂の上に道源寺。坂の下に西光寺といふ寺あり。この二軒の寺の墓地は互に相接す。西光寺墓地の生垣は柾木にてその間に蔦と忍冬の蔓からみて茂りたり。五、六月の交忍冬の蔓には白き花さき甘き薫りを放つ。花の形は図に描けるが如し。(1935 昭和10 6.3)              隣家の梅花満開なり。道源寺阪下西光寺の庭にも梅花星の如し。(1938 昭和13 3.17)  


 
 
 
 荷風が大好きな秋海棠(別名断腸花)も知人から贈られて庭に植えることが出来て大満足だった。

 今日偶然、これを獲たる嬉しさかぎりなし。大久保の旧居には秋海棠多かりし故、顔して断腸亭となせしも、そらごとにては非ざりしが、今住む麻布の家には胡蝶花茂りたれど、秋海棠なかりしを以て、この日乗に名づけし昔の名もいかがあらむと、日頃思ひわづらひゐたりしが、その憾みも今は満されたり。
(1926 大正15 9.26)
  
 
 
 今も昔と同じ場所にある西光寺と道源寺、その脇の人と自転車しか通れない道源寺坂、荷風も登り下りしたこの坂道を歩くと、その周辺のあまりの変貌には今更ながら驚くばかりだ。荷風の愛した草木や崖のある眺めはどこへ行ってしまったのだろう。坂の登り口の脇では再々開発の巨大なビルを建設中で、その隣には崖下の街を潰し、崖を削って地上45階の泉ガーデンタワーが2002年に竣工した。坂の上には高層マンションが建っている(写真)。偏奇館の昔を偲ぶ手がかりはこの坂道くらいしか今はないようだ。

 消えてしまった地形を知るには地図しかないと図書館に行った。ここで見つけたのが 『明治前期・昭和前期 東京都市地図3 東京南部』(柏書房、1996) で、うれしいことに市兵衛町の辺りの明治13・42、昭和12・20・30年と5枚の1万分の1の地図を見ることが出来た。

 
 
 地形のよく分かる明治13(1880)年の地図を見ると、今の六本木交叉点から溜池交叉点の方向は東北に開けた大きな谷で、低地に箪笥町・谷町・榎坂町と人家が連なっている。後にここに市電が通り(1925)、偏奇館に近い停留所は福吉町だった。この谷の東南にはいくつかの小さな谷が切れ込んだ舌状の台地が広がり市兵衛町1・2丁目、霊南坂町となっている。台地の上には北から西南方向へ道が通り、市兵衛町1丁目には梨本宮邸・毛利邸・大山邸が並んでいる。緑豊かな静かな環境が想像される。そして道源寺の辺りは、寺の場所を台地の先端にして左右は切れ込んだ小さな谷となっている。台地上の道から寺の左側、西南の谷の奥に行く小道が分かれ、それは急な崖を下って西光寺の方へと通じている。偏奇館はこの小道が崖のへりに来たところの北側に建っていたと考えられる。後には崖のへりに沿って道源寺の上に通じる道も出来たようである。この小さな岬の先端に登って来るのが道源寺坂で、その道は台地上の道のスペイン大使館の南に通じていて、今もある。

 大きな谷の谷町・榎坂町の一部を再開発して出来たのがアークヒルズで全日空ホテルやサントリーホールなどがある。また箪笥町の偏奇館の下の小さな谷を再開発して出来たのが泉ガーデンタワーで、背後の崖の上には戦前から住友邸
(後に住友会館)があったようである。その縁で崖下の再開発に乗出したのであろう。泉屋とは江戸時代の住友家の屋号だそうで、旧住友会館は住友家のコレクションを公開する泉屋博古館分館と泉ガーデンギャラリーになった。この再開発の時に昔からの台地上の道に並行してスペイン大使館の裏から西南に新道が造られた。かくて昔の道は残っても周辺の景観は一変して偏奇館のあった辺りも飲み込まれてしまったのだろう。

 荷風を愛してやまない川本三郎の大冊 『荷風と東京』 もこの偏奇館について詳しく触れているが、元になった文章は1992年以降に雑誌に書かれたものである。当時は泉ガーデンタワー建設の動きが始まってはいたが、「道源寺から、まさに 「間道」 のような細い道を右に折れ、左に折れしながら歩いていくと崖の上に出る。そこにヴィラ・ヴィクトリアという五階建ての小さなマンションが建っている。そこが荷風の偏奇館があったところで」 「ここが都心かと信じられないほど静まりかえっていた。空地に野良猫が二匹昼寝していただけでなく、偏奇館跡から崖下に降りる御組坂では大きな蛇が一匹、ゆっくり坂道を横切っていた」(p.94.103)と、戦災にあったとはいえまだ昔の様子をその頃には偲ぶことが出来た。しかしこの跡地を歩いた記述ももはや過去のものとなってしまった。

 かつて野口冨士男は 『わが荷風』(岩波現代文庫、2012)に 「現在の東京は河川や掘割が埋め立てられ、高速道路や建造物のために驚くべき変貌をみせているものの、たとえ道路はひろげられても、その道路はふるい道路を基本として変っているにすぎない。しかも、そのふるい道路は大正時代や明治時代をさらにさかのぼって、江戸時代の切絵図をみてもおおむねのところはさがしもとめられるといった程度のものである。町並は死滅しても道路だけは姿をかえて生きているというのが、こんど東京の町々をかなり広範囲にわたって歩きまわってみた私の結論めいたものとなった。逆にいえば、道路はどうやら生きのびていても町並は死滅してしまった」 と書いたが(最初の単行本は1975年)、偏奇館跡の探索でもまさに同じ感想を持ったのである。
 

 
 すでに失われてしまった偏奇館とその周辺の様子がだいぶ目に浮かぶようになってきたが、さらにいくつかの文章に探ってみよう。

 戦後何年かたってここを訪ねた野田宇太郎は 『新東京文学散歩』(角川文庫、1952)に、台地の上の道を南から歩いて「左へ折れる片側路の下り坂に入る。すぐに正面の焼けあとに突き当る。左端は石垣の小高い崖になって下の民家へ続いてゐる。その石垣の上は茂るにまかせた一群の笹薮のさざめき、その藪の右側に、麻布市兵衛町一ノ六難波治吉、と表札のある、新しい平屋の住宅が建ってゐる。ここが、私のたづねる永井荷風の偏奇館の焼けあとである」 と書いている。荷風がこの土地に戻ることを断念して売却したのは1948 昭和23年のことである。

 また、偏奇館の辺りに縁のある人も居るわけで、中国文学者奥野信太郎は 『荷風文学みちしるべ』(岩波現代文庫、2011) に次のように書いている。

 そのころわたしもまた麻布市兵衛町に在住していたので、荷風の偏奇館の周辺は日夕わが散歩の圏内でもあった。市兵衛町の細い通りから通称柳の段々という石段を下りれば、深い峡谷のように入りこんだ谷町の低地に達する。この低地には古い貧しげな民家がたちならび、五月ごろになると、うす紫の桐の花がしずかに咲きにおっていた。偏奇館所在の一丁目六番地の地は、この低地の、いわば対岸にあたる崖上の一帯を占めた一郭であり、地の高燥であるにもかかわらず樹木の気に富んでいて、まさに市隠のおるべきところというべき場所であった。その当時市兵衛町には山形ホテルという、いかにも古めかしい小さな純西洋風の飯店があったが、もしそのややうす暗いロビーに坐して外景に眼を放てば、明るく光る雲の下、偏奇館側面の全形を樹立ちの間に望みみることができるのであった。荷風の中期作品のすべては、谷町の低地を見下す高台の一角に、忘れられたように建っていた、ブラインドのあるこの古い洋館のなかで書きあげられたものである。「濹東綺譚」 もまたその一つである。

 同書には、作家の大岡昇平との対談(1967)も収められているが、なんと大岡は偏奇館の隣が伯父の家で、奥野との対談に次のような一節がある。

大岡 いまでも麻布市兵衛町の辺は、東京の古い地形が残っているところですね。江戸見坂を登ってあの崖っ端の道を歩いたりすることがあるのですが、あそこは昔のまんまですよ。
奥野 そうですね、また妙な地形で、下がすぐ谷になっていましてね。谷町、名前のとおり、谷町だったですね。  
大岡 戦災にもあわず焼け残っていますから、まだ昔の家がたくさんありますよ。
奥野 偏奇館へ曲るところ、あの角に田中銀之助という人のシャレた洋館がありましたでしょう。そこに桜の木があって、その桜の花が片々として散るというのを、荷風先生は書いておりますね。  
大岡 あの辺には、大使館や外人の住居がありましてね。
奥野 いかにも永井荷風という人の住みそうな場所を見つけたものですね、岬みたいになったところを。  
大岡 見晴らしがよくて、人を見下して暮しているわけだ(笑)

 偏奇館をはじめ高台の家は戦災にあっているが、低地の家は焼けなかったのだろうか。山形ホテルのあった場所に今は麻布市兵衛町ホームズが建っている。その入口には、「此処は、大正九年から昭和元年まであった山形ホテルの跡地である。(中略)当時、山形ホテルの北側は崖となっており、間に小さな谷間を挟んでその対岸に偏奇館が建っていた。山形ホテルの主人、山形巌の子息が俳優山形勲(大正四年ロンドン生れ、平成八年没)である。(中略)昭和四十七年に麻布パインクレストが当地に竣工した。爾来三十年が経過、都心部での住民主導によるマンション建替えの嚆矢として今般麻布市兵衛町ホームズが完成した。平成十六年十月」 と書かれた説明板が壁にあった。このホテルは荷風が食事や接客によく利用したが、川本の本に詳しく書かれている。山形ホテルの北側の谷間を下る御組坂は、今はタワーに隣接するホテル脇の通路に姿を変えて名残を留めているようだ。

 さらに、晩年の荷風を物心両面で支えた相磯凌霜の 「日和下駄余話」 の一節を紹介する。1915 大正 4 刊行の 『日和下駄』 の復刻版に写真を何枚も入れた本の別冊付録である(東都書房、1957)。荷風と相磯の二人が偏奇館跡から歩いてくる1954 昭和29年撮影の写真が挿入されている。右側がやや高い石垣で、左側には崖端に柵が続いており、正面が偏奇館の跡と書いてある。相磯は、「東京の山の手には、美しい 「崖」 が至る処に多くあった。麻布市兵衛町の崖の上から谷町を隔てて氷川台に対した偏奇館の眺望も、亦実に美しかった。花時分、反対側の三河台から偏奇館の方を眺めると桜の雲に包まれた背の高い偏奇館が僅に頭を出して居る姿は、全く素晴らしい眺めであった」 と、偏奇館からの眺めも、また偏奇館を望む眺めも素晴しかったと言っている。台地の上の道は桜並木になっていた。まさに崖の町ならではの美しい風景だったろう。
 

 
 偏奇館に住む前に著された 『日和下駄』 で荷風は、「山の手に生れて山の手に育った私は、常にかの軽快瀟洒なる船と橋と河岸の眺を専有する下町を羨むの余り、この崖と坂との佶倔なる風景を以て、大に山の手の誇とするのである」 と述べている。数えてみると、生地小石川金富町をはじめ一番町・余丁町・麻布市兵衛町と山の手での荷風の生活は53年におよぶ。偏奇館が戦災で焼けた1945年に66歳だからまさに 「山の手の児」 である。彼は山の手から銀座や浅草、深川へと出かけては友人・知人との飲食や歓談、女給や踊り子との付合い、下町の散歩を楽しんだ。また花街に出入りして芸者などと深い中になった。しかし、荷風は下町を愛しても下町へは常に訪問者であった。諸氏の指摘する 「異国への愛」 「二重性」 である。

 <われは明治の児ならずや>とうたった荷風は、同時に山の手の児であった。深川も、玉の井も、浅草も、彼にとってはパリと同様、ある意味では異国であった。異国ゆえの愛であった。彼がそのことに気づかぬはずはなかったのに、それでも愛してやまなかった。(野口冨士男 『わが荷風』)

 崖の上の西洋館に住む近代人荷風が、時折り、崖の下の日本家屋に住まわせている女の家に出かけて行き、仮構された江戸を瞬時味わうという二重生活を楽しむ。(中略)下町の散歩者として水の東京を楽しみながら、生活の根拠は山の手の深い緑に囲まれた崖の上に移す。二重性の確立である。(川本三郎 『荷風と東京』)
 
  『断腸亭日乗』 には、町を歩く女性の髪形や服装、物の値段やはやり言葉、流行歌など今和次郎の考現学のような観察が時々記されている。下町は、荷風自身が楽しむと同時に山の手に住む作家荷風の創作のための人間観察の場であり、社会観察の場であったといえよう。
       

 
 偏奇館は1945 昭和20年 3月の東京大空襲で焼失した。関東大震災では大きな被害を受けなかったが、空襲による火災は防ぐすべがなかった。庭の大きな椎の木や草花も漢籍や洋書も、洋館とともに消えてしまった。罹災後の荷風は、中野・岡山へと避難したがそこでも戦災にあい、生命の危険に直面するという大変な体験をした。

 天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。(中略)二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと(中略)洋人の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能はず。唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ。これ偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり。(1945 昭和20 3.9)

 ああ余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり。(中略) 昨夜火に遭ひて無一物となりしはかへって老後安心の基なるやまた知るべからず。されど三十余年前欧米にて購ひし詩集小説座右の書巻今や再びこれを手にすること能はざるを思へば愛惜の情如何ともなしがたし。(1945 昭和20 3.10)  

 かくて、「午後落葉を焚き薮蚊を追ひつつ茂りし椎の木陰に椅子を持出で読書の後ふと興の動くがままに手帳に小説の筋書をしるす。この日蒸暑甚しく机に向ひがたし。椎の木陰は日を遮り涼風絶えず崖の竹林に鳥の声しづかなり。」(1943 昭和18 6.17) といった自然の中の穏やかな生活は永遠に失われたのである。

 戦後の荷風は、市川市(千葉県)で居候の生活をした後に小さな家を購入して住み、やがてその近くに家を建てたが、そこで孤独な死を迎えた。

 戦後の困難な事情があったにしてもその気になれば十分な資金を持っていたろうに、荷風はなぜ崖の上に再び家を建てて住まなかったのだろうか。容易に考えられることは、戦災による下町の消滅と崖上の家の消滅である。これまでの荷風の世界の消滅が山の手へのこだわりを失わせたのだろう。しかし、空襲といった物理的な力による前に、崖の上の生活は時勢の影響もあって内側からも崩壊していた。

  この日より当分自炊をなす事とす。一昨日下女去りて後新しきものを雇入るるには新聞に募集の広告をなすなど煩累に堪へざるを以てなり。W生帰りて後台処の女中部屋を掃除し、夜具敷きのべて臥す。畳の上に寝るも久振りなれば何ともなく旅に出でたるが如き心地なり。(1937 昭和12 2.3)
 
 思へば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてより早くも四年の歳月を過したり。始は物好きにてなせし事なれど去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚しく世の中遂に一変せし今日になりて見れば、むさくるしくまた不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるる事多くなり行けり。時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣ひながら崖道づたひに谷町の横町に行き葱醤油など買うて帰る折など、何とも言へぬ思のすることあり。哀愁の美感に酔ふことあり。かくのごとき心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。(1941 昭和16 1.1)
 
 狭い畳の部屋に寝起きして自炊の生活をするということは、偏奇館に移った当初には全く考えられないことだった。食事は女中の作ったものを食べるか外で食べるものと決っていた。畳の部屋での日本風の生活が否定すべきものであることを荷風は日記に縷々書き記しているし、「独居雑感」(『婦人公論』 1922 大正11 8)では独身で洋風な生活をしていることを公表し、それが日本では何かと不便なことが多いとこぼしている。

 『断腸亭日乗』 の上の記事は、独居洋風生活のために大改造して始めた偏奇館での生活が崩壊していた事実を物語っている。また、戦争が悲劇的な様相を深め、権力が人々の内面まで支配しようとしていた当時、時勢に順応し、時勢に迎合する文学者が多く現れたが、独居自炊の厳しい生活の 「哀愁の美感に酔」 いながらも、己の内面を権力が支配することを断固として拒否し、「心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり」 と日記に記した荷風の存在は忘れることが出来ない。

 度重なる空襲で東京は焼野原になったといっても、焼けなかったところも結構あったし、焼けたところも戦後の復興は目覚しかった。しかし、荷風は山の手の生活には戻らなかった。1948昭和23年1月に浅草に行ったのが戦後東京の地を踏んだ最初だといわれる。

 復興した下町は荷風の愛した下町ではなかった。彼の愛した下町とは、「船と橋と河岸」 と街並の景観、情緒であり、古い寺社や街なかの散歩であり、盛り場や花街の女性との付合いであった。下町に住む普通の人たちは、山の手に住むエリート荷風にとっては 「下層階級の人」 でしかなかった。建物と庭をはじめこれまでの環境の消滅と洋風生活の失われた荷風にとって、崖からの眺めを除けばもはや東京には彼の住むところ、楽しむところはなかったといえる。戦後も作品の発表は続けられたが、それらは概して評価が低く、戦前の作品の再刊が多かった。心身の老いは深まるばかりだった。

 永井荷風は、東京に隣接する市川で独居自炊の生活の末、1959 昭和34年4月30日に79歳の生涯を終えた。汚れ果てた乱雑な部屋の中に洋服を着たまま倒れて息絶えていた荷風の姿はマスコミによって容赦なく世間に報じられた。かつて 「今の世において我国天子の崩御を国民に知らしむるに当って、飲食糞尿の如何を公表するの必要ありや。車夫下女の輩号外を購ひ来って蝶々喃々、天子の病状を口にするに至っては冒涜の罪これより大なるはなし」(1926 大正15 12.14)と日記に記した荷風であったが、自分が同じような目にあうとは夢にも思っていなかったろう。葬式も墓も望まぬと何回も遺書に記していた彼だが、葬式が行なわれ、雑司ヶ谷の永井家の墓地に墓碑が建てられた。

 「芸術のなかでも文学、文学のなかでも小説ほどなまぐさいものはあるまいが、荷風はそれを自己の一身に具現した。文学の老醜と文学者の老醜を、近代日本の作家たちのうち荷風以外の誰が私たちにみせたか」 と、野口冨士男は厳しく断じた(『わが荷風』)

 1952 昭和27年に文化勲章をもらった荷風が、浅草の踊り子たちと祝宴を張る姿を世に多い荷風文学の愛好者たちはどう感じたのだろうか。